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HAL side 2
みっつ目のいいことは、美大にまた通えるようになったこと。
ある事情で去年の4月から休学していたのだが、店長が奨めてくれて、今年の4月に復学することにした。
かなり遠いところに越してしまっていたので通学時間はずいぶん伸びたけど、電車に揺られるのは全然苦にならない。車窓を流れる景色を見るのは大好きだし、なんといっても絵の勉強ができるのだ。
友だちも、たくさんできた。なんとその中には俺の元カノのアヤネさんもいる。彼女とはヒドい別れ方をしてしまっていたが、彼女は全然俺を恨んでなんかいなくて、自然に友だち付き合いかできている。俺はドギマギしていたのに…。女の子って、スゴイ。
ちなみにヒミズさんは、大学のある日は俺のためにお昼の弁当まで用意してくれる。根はいい人なのだ。前に店長も言っていた。
少し残念なのは、カフェのバイトに入るシフトが減ってしまったこと。大学が終わってからと、大学が休みの日だけになってしまった。
店長は、学校もあるのに悪いね、と言う。でも、ヒミズさんの人見知りのせいで俺以外にバイトを雇うことは考えられないから助かる、とも言ってくれる。俺は、たとえ無給だってここでバイトをしたい。
(だって、大好きな店長の笑顔を、少しでもたくさんみておきたいから。)
こんなんだから、総合事務職のヒミズさんにはいつも無理を言ってシフトを作ってもらっている。
こないだ、大親友の大窪 がカフェに遊びに来てくれた。
大窪とはちょっと前とは違い、今ではしょっちゅうメールで連絡をとりあったり、会って遊んだりしている。でもカフェに来たのは初めてだった。
最初は緊張してるふうの大窪だったが、店長ともすぐ仲良くなり、カフェが閉店してからも夜遅くまで話した。
あのヒミズさんが閉店後に大窪の分までまかないとお茶を用意してくれた。小さな声で『ありがとう』と言うと、すぐに厨房に戻った。
大窪は俺がピンチだったときに俺の身代わりに大怪我をしてしまったことがある。ヒミズさんも店長も、なぜかそれを知っている。ヒミズさんに急にお礼を言われた大窪はびっくりしていた。でも、照れ臭そうにしていた。
別れ際、今度ふたりで一緒に旅行にでも行こうと約束して別れた。
―― 幸せ貧乏根性
アンドーさんはそんな造語を使って俺をなじった。
まあ、アンドーさんから見た俺はそうなんだろう。『幸せ』になることに『貧乏』するのが俺の『ポリシー(根性)』だと言ったのだ。
確かに昔の俺はそうだった。なにをしても、どうあがいても、俺なんか幸せにはなれない。そう思い込んで、ひたすら息を殺して毎日を過ごしていた。
でも、今は違うんだ。
俺が何もしなくても毎日は幸せだし、いいことだってたくさんある。
…ああ。
俺が夢見ていた、平凡な毎日。
今は、本当に、毎日が飛ぶように過ぎて行く。
ただただ、楽しくて。
クリスマスイブの夜、俺は不思議な夢を見た。
空気は温かいけど、一面雪景色。
空には満天の星。
星を見ていたら、そのなかにサンタの服を着た店長がふわふわと浮かんでいて、俺に手招きしているのが見えた。
すると俺の体は真っ白な地面から離れ、店長のところまでゆっくり上昇していき、今度は二人で空に浮かんだそりに乗った。
―― いや、そりかと思ったら、よく見ると店長のジープだ。
店長は、プレゼントの代わりに街に雪を降らすのだと言って、俺たちが住む街のうえをゆったりと走った。窓から下を見ると、ふわふわとした雪が次々と舞い落ちていてきれいだった。
下に、ヒミズさんが見えた。
舞い落ちてくる雪を手にとって、俺たちを見上げ、すごくきれいな顔で…笑った。
ヒミズさんの笑顔なんて、すごくめずらしい。
手を振ると振り返してくれて、それがとてもうれしいことに思えて、俺は店長を振り向いて何か言おうと思った。
―― 店長、ヒミズさんが、
ガサン!「ふわっ」
なんか落とした!
すぐ近くにあった何かの気配が、意識が覚醒するのと同時によろけて消えた。ベッドの下に落ちたらしい。飛び起きる。
「…ん…?」
―― あれ?ここ、店長の実家のゲストルームのソファだ…
(なんでこんなとこで寝てるのかな。)
…あれ?なんだこの服、こんなの持ってたっけ…
(…あ、そうか、昨日店長に着せられた、トナカイのコスチュームだ。)
なーんだ、そうか。昨日、クリスマスのお祝いをしてる最中に寝ちゃったんだな、俺。
「ふ、ああ…」
でかいあくびがでた。
―― はふ
「メリークリスマス、ハル。」
「はわ!」
店長の声!
見ると、店長が部屋の隅にある大きなベッドに腰かけてにこにこしている。赤い服を着ている。昨日の、サンタクロースの仮装のままだ。
「あ、おっ、おはようございます!」
(ぜっ、ぜんぜん気づかなかったっ)
店長は俺と目が合うなり大きく笑った。
「ははは!ぼくのこと、人形かなんかだと思ったんでしょう?」
店長がキラキラとしたきれいな笑顔を見せる。
「いや、ひとがいると思わなくて、」
(朝っぱらから、なんてさわやかなひとなんだ…)
俺は、店長のとろけるような笑顔がやっぱり大好きだ。
と、店長はベッドから立ち上がって俺に向かってきた。
俺は店長に見とれていたことを悟られないように、必死にさっきの会話の続きを絞り出す。店長はどんどん近づく。やばい。緊張してきた。店長はテーブルから何かを拾い上げて、ついに俺のすぐ前まで来た。あ、あわ…
(…もしかして、おはようの、キス、とか、してくれるんだろうか)
前にこの部屋でしてもらったことがある。
(あ、でも、ちょっと酒臭いかも、今の俺…)
昨日は店長とアンド―さんにワインをしこたま飲まされた。
(酒臭い、とか思われたらヤだな。)
俺の声は聞こえるものの、もはや俺自身が何をしゃべっているのかわからない。
大好きな店長の顔が目の前に…あれ、なにかくわえて…
「――ん」
店長の舌と同時に、冷たい、平べったいものが口の中に入ってきた。
やがてそれはすぐに溶けて、チョコレートだったのだとわかる。
昨日テーブルのうえに散りばめられていた、金色の包み紙のコイン型のチョコレート。
「…ん…」
甘い、甘い、店長の舌。
店長と繋がることは、嬉しいけどひどく恥ずかしくもあり、俺はどうしていいのかわからなくなる。
―― 俺は、少しはキスがうまくなったかな。
店長の腕のなかでとろけてしまいそうだ。
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