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あがって、と言われたのはマンションの一室だった。そんなに新しくはなさそうだけれど。管理は行き届いていて、木の葉の一枚も落ちていない。
男の人は、ただいまと言って上がっていく。スリッパはなかったから、裸足のままあがった。フローリングが氷の上みたいにひやっとしていた。部屋は狭いけれど、整理が行き届いている。真ん中にチェック柄の毛布が掛かったこたつがあった。
「おこた今暖めてるから、入ってなさいな」
見ず知らずのこんな怪しいやつを、部屋にあげてくれるなんて、いい人なんだなと思った。
長い髪は地毛みたいだけど、長いまつげはエクステとか、つけまつげなんだろうか。近くで見ても不自然でなくて、きれいだった。
なんでもいい。
この人なら、いい。そう思って、俺は近づいた。もたれかかるように近づいて、その人はどうしたの? と驚いたように聞いてきた。
その人を押し倒す。ちょうど、その人に乗り上げるような体制になった。
「……」
近くで見ても、とてもきれいな人だ。そして、こうやって不審な動きをしても蹴り上げたり叩いたりしない、いい人。心の中で、気がすむまで謝っておいた。
心が爆発して死んでしまえたらいいのに。
「どうしたの?」
困惑気味だった。かさかさの唇を開く。部屋に入ったせいか、声が出そうだ。よかった。
「おれを、かってくれませんか」
驚いた顔をしているその人に、ぶちまけるように続ける。
「明日までにお金を払わないと、地元の親に迷惑がかかるんです。……あ、借金とかじゃなくって、家賃なんですけど、先々月会社クビになって、でも5年くらい親とも連絡とってなくって、実家に帰ろうにも去年契約2年更新しちゃったから余分にお金払わなきゃいけなくなるから、帰れなくって、…どうしようって」
ごめんなさい。そう心の中でつぶやきながら、頬紅を差した少し赤い顔に近づく。甘い化粧品のにおいがする。けど、それだけじゃなくって、たぶんこれはこの人の匂いでもあるんだろう。
「だからこの二ヶ月は今まで貯めたお金で家賃払って、少しずつ食費を削ってご飯食べてて、……でもやっぱりお金が足りなくなっていって、俺が死ぬ分にはいいけど、大家さんも生活かかって家を貸し出してくれてるし、育てて送り出してくれた親にもうしわけないし、もう、どうしたらいいのかって…」
床に呆然と置かれた、ネイルがきれいな手を取る。自分の腰の方に回させた。自分でやっておいて、ぞわりとした。やっぱり、怖い。
「ホモ…今は、ゲイっていわなきゃダメなんでしたっけ。……おれ、童貞じゃないけど、こっち…は、初めてだから…処女だから…」
誘い文句なんて知らない。男に処女って言葉がふさわしいのかもわからないけれど、初めてなんだから処女なんだ。
男の人は、反応がなかった。なぜかおれは後ろを振り向いて、透けた黒タイツからすらっと伸びる足を見たり、セーターのVネックから見える首元をうろうろ見ていた。
俺は、回らない頭で、もしかして、抱かれたい方だったのかな? とか、俺なんかが誘っちゃいけないような人だっただろうかとか、あと恋人さんがいたのかとか、一応ハッテン場らしいところ(ネットで調べた)に行ったつもりだったけど、普通に女の人が好きな人だったのかなとか、ぐるぐるしてしまった。
男の人の、俺の腰に回してる方の腕がぐっと力を帯びた。俺がびっくりして体を固めてしまっていると、男の人は半身を起こして、俺の頭から足先までじろじろ視線を巡らせていた。
眉間にしわが寄っている。視線が観察とか値踏みするようなもので、怖い。
息を吸う音にも、口を開けることだけにでも、びくびくした。
「……いくらで?」
「えっ?」
「値段。養ってほしいとか、貢いでほしいって訳じゃないんでしょ?」
必死に、首が痛くなるほどうなずく。それでも、眉間のしわがとれることはなかった。
「ふうん……。わかった、ちょっとどいて。暖まってるからこたつにでも入ってて」
声が冷たくて、どうすればいいのかわからなかった。男の人はすっとどこかへ行ってしまった。とりあえず、がさがさの毛布をめくって足をこたつに突っ込む。やけどしそうなくらい暖かい。
抱かれにきたはずなのに、こんなにのんびりしていいのだろうかとそわそわした。とんとん、と肩をつつかれてそっちを見ると、中がふわふわのスエットを持っていた。頭の中が「?」でいっぱいになる。
「これ」
持ちなさいと言うことかと思って、手を出す。手の上にそれを置かれ、ますます頭に「?」が増えていく。その上に、ふかふかのタオルをおかれて、「こっち」と手招きされる。
ああ、抱かれたいなら風呂に入れってことかな。そう思うと。暖かいはずの足が、氷のように固まってしまった。目の前の、優しくていい人のはずのこの人が、とんでもない怪物に見えてきて、知れずスエットとタオルを抱きしめていた。
ついてこないとわかると、むっとした顔で迫られた。腕をとられる。体が固まるのがわかった。
「なにやってんの?」
いいから、と無理矢理立たされ、ぐいぐい腕を引っ張られる。こわい。けど、振り切るほどの力は残っていない。ぽろぽろとスエットとタオルが落ちていく。角を二つ曲がって脱衣所につくと、脱がされてさっさと風呂場へ追い立てられた。まるで、ゴミをぽいと捨てるような扱いの粗雑さだった。
「……」
思ったより浴槽は広い。湯船にはお湯がたっぷり張られていて、湯気で浴室全体が白く煙るほどだ。見た目と築年数があまりよくない分、内装にお金かけているんだろうな、と邪推する。
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