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「……シャンプー、いっぱいだ」  いい香りの元はこれなのかな、と鼻を近づけると、目の前に鏡があることに気がついた。ここで毎日、あの人はきれいになっていくんだろう。けど俺は、今、自分がどんな風になっているか気づいて、ぞっとした。  伸ばしっぱなしのひげと体毛。元々濃い方じゃないけれど、それでも集まればそれなりに見苦しい。産毛さえ剃っていそうなあの人とは大違いだ。目立ったところにフケはないものの、よく嗅げば脂っぽいにおいがする。不潔だ。そういえば、節約とか言って何日くらい風呂入ってなかったっけ。  その体で、あの人の上に乗って、……そこまで考えて、ぞわりとした。  カミソリを探した。あんなにきれいとはいえ、男の一人暮らしだ、風呂場にカミソリの一つくらい転がっているだろう。あった。シャンプーのボトルとボディソープのボトルの間に、潜むように転がっていた。棒状の、よく切れそうなやつだ。  頭から洗うべきか、一瞬悩んだけど、この見た目にやっかいな体毛をなくすことを先に選ぶ。ボディソープを手で泡立てて(泡立てるやつもあったけれど、なんとなく使ってはいけない気がして使わなかった)、よし、腕の毛でも剃るぞと言うときだった。  背中から冷気が来た。ぞわっと身の毛がよだち、鳥肌が立つ。ネイルをした手が、カミソリを持った方の腕をつかんだ。思ったよりずっと強い力だ。必死な形相のその人が、もう一方の腕もつかんでこちらをにらんだ。 「ちょっとあんた、なにしてんのよ!」 「なにって…」 「ひとんちで、自殺なんてしようもんなら……ああ、もう! なんで昨日のアタシ、こんなとこにカミソリ置いたの! 馬鹿じゃないの!」  カミソリを脱衣所に投げ飛ばされた。ぽかんとする俺を尻目に、その人は肩で息をしてこっちをにらんでいる。怖くはないけれど、ひどい勘違いをされているらしい。頭が回らない俺でもわかる。 「ちょっと待ってなさい! そのまま湯船浸かってていいから!」  いやそれは、と反論する隙は与えられなかった。その人はさっさと脱衣所からも出て、どこかへ行ってしまった。そしてすぐ戻ってきて、なぜか脱衣所で脱ぎ始めた。ニットの下は、暖かいクルーネックのシャツだった。ぼうっと見ていると、また眉間にしわが寄っている。 「なんで、湯船に浸からないの」 「よ、汚したらいけないと思って…髪も体も、二回ずつくらい洗わないといけない、と…」 「そんなのどうでもいいから! 風邪引いたらどうするの」 「え、でも……」 「四の五の言わない! 人間の一日に出る皮脂の量なんてたかが知れてるんだから!」  よくわからない理屈で脅されて、さっさと入れと無言で促される。俺は、びくびくしながら片足を入れ、もう片足を入れて全身浸かった。それを見届けると、ほっとしたようにドアを閉めてくれた。しかも、浴室暖房までつけてくれて、すぐに体が暖まった。  抱いてもらおうと思った相手に風呂に入らされて、風邪の心配をされて、自殺しようとしたと勘違いされて……まさか、一緒に風呂に入ろうとされるなんて、数ヶ月前の俺ははたして信じただろうか?  手持ちぶさたで、ドアに映るシルエット見ている。スカートを脱いで、タイツを脱いで、クルーネックを脱いで、……そうしてどんどん裸になっていくと、すらっとした男の人の体になっていた。  筋肉がバランスよくついていて、まったく弱々しさはない。女の人の服も似合いそうだけど、男の服を着たらもっとかっこいいだろうと、容易に想像ができる。  じいっと見ていたら、ドアが開いた。顔だけメイクのままで、腹も胸もきれいに筋肉がついているその姿は、なんだか不釣り合いにも見えた。腰にはタオルが巻かれている。男の人が、俺の額へ手を伸ばしてきた。 「さて。芯から暖まった?」  額、頬、首筋と、あと湯の中の手を確かめるように触っていって、鷹揚にうなずいた。いいわね、と言うと上がるように言われたので、タオルを探してしまう。そういう風に腰に巻くべき何だろうと思った。 「いいからそのままで、気になるなら、巻くよりも腰に掛けておきなさい」  そう言って無理矢理湯船から引っ張り出される。シャワーをあたまから掛けられる。暖かいのに、心が寒い。 「あ、あの…」 「なに。……言っとくけど、今日は抱かないから」 「……」  買ってもらえないとわかると、心がぽっきり折れてしまった。それなら、なぜ風呂に入らせるようなことをするんだろう。 「……あんた、言葉が少ないわりに、表情が豊かなんだね」  その人は驚くように言った。後ろに立っているのになぜわかるのかと顔をふと上げると、目の前の鏡が、驚いたその人の顔をはっきり写していた。見られていたんだ、と羞恥で体が熱くなる。  手を頭に伸ばしてきた。殴られるかもしれないと、目をぎゅっとつぶった。痛みがなかなか来ない代わりに、不器用にさするような、撫でるような感覚がした。 「大丈夫」  なにが、と言う前にその人がシャンプーのボトルに手を伸ばした。ローション代わりにシャンプーが使われることもある、という下世話な知識を思い出して、身を縮める。だからこんなにいっぱい、シャンプーがあるのか。息が急に詰まった。 「動かないで。今日は抱かない。約束するわ」  けれど、それは困る。  なにせ、お金がない。  俺は役立たずだから、もう売るものなんて体か臓器ぐらいしか残ってない。臓器は最終手段として、ぼろぼろになるまで、この体を売り払いきってしまいたいのだ。  誰でもよかった。  最初に会った、それっぽい人で、怖くなさそうな人に売ってしまおうと思った。体を売る覚悟まではできていたけど、それでも初めてだから、優しそうな人がよかった。  黙っていると、頬に一筋涙が流れていた。 「……誰でもいいんです、おれに値段をつけて、買ってくれるなら」  くしゅくしゅ、なにかに空気を含ませるような音がする。かき混ぜるような音かも知れない。  前を向きなさい、としっかりした声が耳元で聞こえた。  鏡の中に、自分が傷ついたように痛ましげにほほえむ、男の人がいた。 「よくないわよ。そんな見た目じゃ、一晩五千円にもならないわ。身を切り売りして生きるのって、あんたらが思うほど甘くないの」 「……甘いですかね」 「あまあまよ、激甘。舌がおかしくなりそうなくらい甘いわ。年取ってまで夢見てんじゃないわよって感じ。セックスしたからって、恋人になれるわけじゃないでしょ」  なにも考えず頷いていた。自嘲するような色があったことを、このとき俺は気づけなかった。  頭にひやりと液体が乗るのを感じた。さわやかなミントみたいな、良い匂いがする。もこもこと泡が立っていく。どこを見て良いか分からなくて、俺は、いつの間にか堅く握っていたこぶしを、じっと見ていた。

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