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 湯煙で視界が曇っている。酔ってふわふわしてるときは、視界までふわふわになるから、浴槽に座りながら紅茶を飲むのがいつもだった。今日は酔ってふわふわどころじゃなかったから、今日は紅茶の代わりにセフレでもない男の子とお風呂にいる。なんだか不思議な光景だ。肩までちゃぽんとお湯に浸かる。 「っは~……」  メイクを取った私を、少しはきれいなカラダになった男の子が見ている。少し堅いのは、色々不安を抱えているからだろう。  女だと勘違いされることは絶対ないから、さっき話しかけてきたとき、絶対に分かって言ってきたんだろうとすぐにわかった。たまにいるのだ。「自分も男っていう性別だから、それだけで自分に価値をくれるところがあるだろう」なんて考えてしまう子が。それで自分の場所を見つける子もいるし、自分のセクシャリティや、自分自身の問題に向き合うことができた子もいる。  一概に悪いといえることじゃない。けれど、ヒゲも髪も伸び放題の、自分を捨てたような姿が、大昔の兄の姿を思い出した。ほっとけってアカネにも言われたのに、ついつい手を焼こうとしてしまう自分がいる。 「風呂は命の洗濯ってよく言うわよね。その通りだわ」 「……お疲れ様です?」 「ほんとにね。……まさか、家でまで職場ごっこするとは思わなかったわ…」 「職場…?」 「そ、わたし美容師なの」 「えっ……」  それっとなんていう反応なの-! と怒ってみせる。するとやっぱり、ほっとしたような顔をする。やっぱりノンケの男が求めるのは、こういうゲイなんだな~…なんてしょげないわけじゃない。 「あ~…そうなんですか。今日もお仕事だったんですか?」 「まあね。今日は上がったから、友だちと飲んでたの」 「ああ。……金髪の」 「そう、金髪のね。ブランドブランド煩いけど、ああ見えて結構可愛い子なのよ」  こんな話をこの子にしても、多分仕方が無いだろう。そう思いながらも、空白を埋めるように口は止まらなかった。うわべだけの会話がするする滑っていく。 「へ~……。お借りした、ジャケットってどうすればいいですか?」 「別に私が返しても良いけど、あって返したいっていうなら仲介するわよ」 「いいえ、別に…。お願いしてもよろしいですか?」  ええ、良いわよと安請け合いする。きつい無言で癒やしの空間にいたくはなくて、断りを入れてとりあえず一度外へ出た。軽く体を拭いて、バスローブを着る。タオル生地の、決して高くはないけれど着心地が良い寝間着だ。こういうときにありがたい。  カミソリを風呂場へ置き去りにしていたことを思い出したら、血の気が引いた。風呂場で手首だけお湯に浸けた兄の姿が脳裏に過ぎって、ぞっと背筋が凍った。あれは本当に、もう二度と見たくない光景だった。そのせいで、何か言おうとする彼を無視してしまった。 「ハサミ、クシ、電動ヒゲ剃り、カミソリ、T字……ああ、乳液……あと、ボディローション?」  ぶつぶつと独り言を唱えながら準備する。一人暮らしの悪癖だ。こればかりは直しようがない。バスローブを着たまま、準備した身綺麗にするためのグッズとポカリ一本を腕に抱え、風呂場へ入ると、うつらうつらと眠たげに彼は壁にもたれかかっていた。  私は、バスチェアに座りながらポカリの口を緩める。 「起きなさい、そのままじゃのぼせるわよ。……ほらこれ飲んで」 「んぅ……ありがとう」  ぼさぼさ頭を掻きながら、ボトルを受け取らせる。落としそうで少し怖い。蓋をすぐに開けると、今までの渇きを潤すように、ごくごく飲み干す。半分ほど飲んだところで、一度口を離し、しっかり嚥下した。それを見届けてから、浴槽の縁にたたんだタオルを乗せる。 「頭、ここに乗せて」  なにがなんだか分からない顔だけれど、それでも素直に従った。人を少しは疑った方が良いと思ってしまうほどの素直さ。よくこの年まで生きていたなあ、と逆に感心してしまう。 「大丈夫、悪いことはしないから」 「………ん」 「きもちよかったら、寝ても良いわよ。終わったら、起こしてあげる。そうしたら、またちょっと、楽になるかもしれないから」  小さく頷くだけで、目を閉じる。案外とまつげが長い。そういえば、俺がつけま外したらちょっとびっくりしていた。肌は年相応にしっかりしていて、ハリもある。正直ちょっとだけ、うらやましさはある。女装するときはメイクすると言っても、肌の状態は隠しようもない。  ここからは、俺の独壇場だ。 「………」  おもったよりも毛深い。近くで見れば森も木の一つ一つに見えるように、それは体質の問題じゃない。小さいハサミで、あごと鼻の下の長くなった髭を五ミリくらいにカットする。これくらいになれば電動カミソリでもできる。産毛も剃れる電動カミソリは、メイクするなら必需品だ。  乳液を手のひらで温めて、顔に塗りたぐってやる。毛の間にも、ちゃんと届くように全体に。手が触れたとき、ちょっと彼がぴくりと動いた。どきりとした。彼のためにやってるわりに、勃ちはしないけど興奮してる自分がいたからだ。  ヒゲだけ電動カミソリを使い、電源をオフにする。次は、良く切れるカミソリの出番だ。さっき彼が使おうとしていたものは、こっそり捨てた。おろしたてのカミソリは、油を纏っていないからすぐに切れてしまう。だから人の顔を剃るときは、すごく、緊張する。  そっと撫でるように。たとえるなら、桜餅の薄い餅の部分を剥がすように、力を入れてはいけない。  剃ったところから、つるつるになっていく。肌がどんどん白くなる。電動カミソリじゃ味わえない、この感覚が、俺はわりと好きだったりする。  持って来たティッシュで毛と乳液を拭き取る。つるりとしたきれいな顔だ。高い乳液のおかげで余計につやつやして見える。けれど、目の下に薄い隈がかかっていて、不健康さにむっとした。  そんな自分に、重いため息を吐く。 「なにやってんだか……」  名前すら知らない男に尽くして、しかも恐らくノンケの男に何を返してくれるんだ? と冷静な自分が呆れている。  手をかけただけ、咲いた花は美しく見える。愛情を持って手入れしたニットは、愛しくみえる。猫にたくさん構って愛してやって、蝶よ花よと育てても、つれないツンデレ猫のまま。そういうことだと思う。愛するのも手をかけてやるのも、俺の勝手だ。返されるものを求めてするわけじゃない。  そうやって生きてきて、そうやってかつての恋人たちに捨てられてきたのだ。  首を振ってそんな仄暗い考えを捨てる。 「だめだめ…そんな、意味ない」  少し濡らしたティッシュで顔をぬぐうと、自分の心もすっと落ち着いた気がした。  ぽんぽんと肩を揺らして深い眠りなら起こさないように優しく肩を叩く。目を薄く開いたのを見て、すまない気持ちになった。なんか、彼で自己満足なオナニーをしているような気になっていた。 「……ちょっと、起きれる? 座っててくれれば良いから」  彼は本当に緩く頷くと、ゆるく体勢を変えた。一応、暖房を付けているから風邪引くほど寒くはないけれど、肩にタオルを掛けてやる。 「そう、ありがとね。もうちょっと寝てて良いわよ」  また小さく頷くのを見届けて、髪を切るハサミに持ち換える。こうなったらやけだ、とことんイケメンに育ててやる。仕事モードに入るとすっと気が楽になる。集中すると、すべて忘れられるから、仕事は結構好きだ。  俺は、いわゆる心の性別は男だ。そうじゃなきゃ、ゲイじゃない。ただ俺は、女装が趣味なだけの女装子だ。普通に酒飲むのが好きだし、好みの男の裸を見れば勃つし、理論武装するときもあれば、感情論にカッと走ってしまうことだってある。だってそれは、俺の性格だから。  昔、ノンケの彼氏がいたことがある。顔がそれなりに良くって、あんま好きじゃなさそうに告白してきた。それでも体でオトせばいいやと付き合ってみた。若気の至りだった。けれど求められるのは『センスが良くって、冗談がよく通じて、ネタにしても怒らない、明るいオカマ』だった。性欲が旺盛なヤツだったから、よく体を求められもしたけど、最後は抱かれながら心が冷めていくのを感じていた。  ……仕事をしながら考え事をするのは、好きじゃない。  じょぎじょぎと切ると、黒い髪の束が湯船に浮かんでいく。なにも考えるのをやめた。白いバスを染められていく。心に澱が溜まっていくようだった。

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