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第239話

 俺とアゼルはまだ初対面で、人見知りの彼にとっては二人きりで話すのが難しいだろう。  漆器のカップに入ったお茶に手を付けていないのも、警戒しているからだ。  以前のアゼルは、事情は知らないが親しくない人と一緒には飲食しないと言っていた。  アゼルにとって俺はまだ、知らない人。 「アゼル……今日は疲れたろう、ここは二人の部屋なんだ。予定もないので誰もこないだろうから、ゆっくりと過ごそうか」 「……、ぉ……お、前、なぜ俺の名を、それも愛称を、呼ぶんだ。……気持ち悪い。耳が、おかしくなる。変だ。変な気分になる……」 「ぁ……そうだな、悪かった、…………魔王、様」  言葉を選ぶように硬質で区切った話し方をするアゼルに、なんでもないように笑い、謝って訂正する。  そんなに選ばなくても、俺はお前を貶したりしないのにな。  彼の言い分はだいぶ正しい。  知らない相手だ、不快で仕方がない。  ──俺の名前はアゼリディアス・ナイルゴウン、お前には特別にアゼルと呼ぶことを許す!  地団駄踏んでそんなことを言っていた記憶が脳裏によぎるが、見ないふりして頭の奥へ追いやる。  そうだ、俺だけがお前の名を呼んでいた。 「魔王様は、どうしたい? とりあえず、俺がいないほうがいいか? それとも、知っている限りの話をしようか?」 「…………話を。ライゼンが、あんなことを言ったわけも、お前が、俺の番であるわけも」 「ん。俺の知っている範囲で、なるべく簡潔に話すが……混乱したら、言ってくれ」  ♢  ある日のアゼルは、どうにも耐えられずに人間国へ行って恩人に出会ったこと。  その後から大事にする人を選び、押さえ込んでいた自分をさらけ出して生きてきたこと。  そして俺が現れて恩人と勘違いしたことで、泣いて、笑って、人違いだと知って離れ、それでもやっぱりと抱き合い、唯一無二の生涯の伴侶と選んだこと。  ゆっくりと、なるべく難しい話は省いて、アゼルが自分と他者の折り合いをつけた経緯と、俺と結婚するまでの概要だけを説明する。  全て話し終わった頃には、アゼルは無表情を仏頂面ぐらいには緩めて、複雑そうに自分の薬指の指輪を眺めた。 「お伽噺だな……たった、一人の人間と出会って、自分を曝け出せるものか? そのせいでお前と、結婚、なんて……その俺は、頭がおかしい」 「出会いは人を変えることがあるんだよ。 〝ありのまま、やればいい。自分を嫌う人はお前の心にいらないだろう? 目をあわせてご覧、見つめ返してくれる人を探して。その人達を、大事にすればいい〟  これは魔王様が生き方の指針にと大事にしていた、恩人の言葉だ。俺は当時の貴方じゃないから、その気持ちは想像でしかない。だが本人の……今の貴方にも、響くか?」 「……、さぁな」  アゼルは興味なさそうに躱したが、薄暗い目に泣きそうな色を見つけた。  反射的にピクッと手が動いたのを、それ以上動かないように押さえ込む。  知っている……知っているんだ。  お前が知らなくとも、俺は知っている。  お前の瞳は魔の瞳。  感情に合わせ相手に恐怖を齎せてしまう、寂しがりやのお前には似合わない魔眼。  目が合うと恐ろしい。  逸らされるのは悲しいから、お前は始めから人の目を見つめなかったのだろう?  だからその言葉は、そうと知っていて目を合わせ、見つめ返してくれるような人は、もしかしたらアゼル自身を見てくれているのかと、そう考えるきっかけを与えてくれた。  今目の前にいるアゼルは、記憶のある自分がどうして(とざ)した心を開くことにしたのかの一端を理解して、泣きたくなったのだ。  わかるとも。  お前の悲しみなんて、虚飾を施して仮面をかぶっていたって、俺には伝わる。  目を伏せて、羨ましそうにする。  今のお前には、もう絶対に訪れない時間だからだ。シャルは、安らかに逝ってしまったから。  ──抱きしめたい。  心で泣かないで。  寂しいのならば、それが埋まるように俺の腕の中でたくさん甘やかしたい。  だけど、俺にはその資格がない。  今の俺は、お前に愛されていない。  お前は俺を、愛していないのだ。

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