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第248話(sideアゼル)
そっと目を開けて、出しっぱなしの漆器のカップにアイツが注いだジンジャーティーが冷えているのを、じっと眺める。
きっとこのティーセットも俺は毎日目にしていたのだろうに、やっぱり見覚えがない。
「…………」
アイツの話が本当なら──俺は記憶を思い出さなくてもいいんじゃないかと思う。
だって、今の俺が前の俺のように心を開くことに慣れていけば、俺にとっては夢にまで見た、ありのままでも誰かと笑い合える日常が手に入る。
ライゼンの言葉なら、俺は七年後耐えきれなくなり、壊れそうになるらしい。
けれど今の俺は悩んで疲弊していたものの、なにもかも忘れて魔界の外へ逃げ出すような、限界の精神状態ではない。
それに天界がなにか仕掛けてきても、俺の力が奪われたわけじゃないのだ。
魔力スポットの魔王城で迎撃するなら、九分九厘勝てる。そうあるから俺は魔王だ。
「…………なんだ。思い出さなくても、俺は幸せに生きていけるじゃねえか」
冷めたジンジャーティーを飲み干して、思い出さないといけないと気負う必要がないと納得する。
あぁ、なんだ。
悩むことねぇな。
漆器のカップは口当たりがよくて、それで一人のお茶会を楽しんでも特になにも思い出すことはない。
だけどこれを淹れてくれたアイツを思う。
まぁ、妃としては置いておいて、俺は別に嫌いじゃねえ。
あの底抜けの呑気な笑顔は、あまり満面の笑みなんて向けられない俺は、なんとなく心が穏やかになる。
今度はお茶くらいなら一杯だけ付き合ってもいいか、と内心で浮かれながら、俺はまた足音を立てないようにベッドに戻っていく。
仕方ないだろ。
ああいうやつはあんまりいないから、少しぐらい浮かれたって。
そっと元通りに端っこに乗ろうと思ったが、本人いわく人間型抱き枕らしい男の寝姿が、変わっているような気がした。
月明かりがあまり入らない夜だからよく見えないが、起こしてしまっていたのかと少し心配になる。
「……オイ、起きてんのか……?」
囁くように確認すると、思ったより素っ気ない声が出た。
そんなつもりはない。
起きていて、冷たいやつだと思われたら嫌だ。
だが起きた様子はなく、顔をのぞき込んでみるとにへらと相変わらずのアホ面を晒して眠っていた。
「寝てんのか……、……よかった……」
起こしてなくてよかったとホッと胸をなでおろして、俺は元の位置に潜り込み、背中を向けて眠ることにした。
記憶を失って不安や困惑でなかなか眠れないかと思ったが、ノーテンキな寝顔を思い出すとそんなことはない。
かすかな月明かりの中、俺はとろりとした微睡みを経て、眠りの世界へ落ちていった。
俺が忘れたひとは、器用に笑うことができる、本当はとても不器用なひとだった。
誰かを想った我侭はいくらでも言うくせに、自分の為だけの我侭は……上手に言えないひとだった。
そんなアイツが、冗談と強がりで隠そうとしたもの。
心臓の奥の愛情の裏にある、ほんの小さなエゴイズム。
俺がお前を愛していたこと。
お前が俺を愛していたこと。
どうか、忘れないで。
どうか、どうか心続く限り。
俺だけを愛していてください。
たったそれだけの我侭を、言われたことすら覚えていない俺は、簡単に諦めろと言う。
あの時どんな気持ちで祈ったのか。
どんな気持ちで泣いたのか。
どんな気持ちで笑ったのか。
どんな気持ちで誓ったのか。
どんな、どんな、どんな。
どんな気持ちで──愛したのか。
そんなことも思い出せない。
忘れたものはそういうもの。
アイツが毎日心の甘いところを選んで千切って、俺の中に詰め込んでくれていた、幸福の塊。
毎日毎日、心を千切って。
毎日毎日、俺に詰め込む。
俺の記憶は、そんなアイツの心だった。
それを痛いほどわかっていたから、いつだって自分の心を千切って、お前の欠けたところを埋めていた俺。
俺達はそうやって、お互いの甘い心を分け合って寄り添っていたのに。
アイツはある日突然、たくさんたくさん捧げ続けた心を奪われ、抉れた心は泣いている。
それでもなにも変わらずに、心を千切り微笑み続けるアイツ。
大丈夫、もう一度あげるよ。
これが優しさ。
これが幸せ。
これが笑顔。
そう言って贈ることを躊躇しないアイツだから。
いつか心がなくなってしまう。
自分の分がなくなってしまう。
それでもきっと、最後のひとかけらまでも、アイツは笑って俺に詰め込むのだろう。
俺が忘れたひとは、
そういう愛し方をするひとだった。
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挿絵参照
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