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第261話

 ──バタン。  部屋の扉を閉めると、暗い廊下には俺一人だけだ。  静かでいいな。夜の静けさはいい。  だから笑って、穏やかな笑顔のままにゆらりと歩き出し、一歩踏み出す。  足を交互に動かす。  右、左、右、左。  そうそう、ちゃんと前に歩いている。  偉い偉い。上手だ。  次第に足は早く動き出し、早歩き、軽走、階段を二段飛ばし。  ドンッドンッドンッ、カーペットを踏み鳴らす。  ああいい音だ。速度が上がる。思いっきり走ると気持ちいい。  だから自然と前へひた走る。  止まることはない。  速く。  もっと速く。  真っ暗な裏道を人に見つからないよう選んで走る。速く、速く、速く。急ぎすぎているかな。それだけ俺は機嫌がいいんだ。  まだ心臓が鳴り止まない。  まだ息がうまくできない。 「ハァッ……ハァッ……ッぅ」  普段からあまり人気のない中庭に出て、俺は月明かりに照らされながら一心不乱に走り抜ける。やはり人がいないから、思い切り。  足が縺れそうだ。  だが、止まってはいけない。 「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」  普段なら、この程度で息を切らすことはない。  弱い俺だが、鍛えているからな。アゼルの隣にいられるよう、できるだけ強く在るのが、俺の目標だ。  だけど手足が震える。  だけど目の前が歪んでいく。  ──本当の俺がわからない、か。  以前のアゼルなら知っていたから、気がついたかもしれない。それはほんの希望だが。  馬鹿らしいもしも。  本当に馬鹿らしい。俺は馬鹿だ。  ほら、笑え。  笑えよ。シャル。 「あはっ……、はは、はははっ……」  満面の笑みで無人の中庭を跳ねるように走り抜ける。  大丈夫、大丈夫、まだまだ笑える。ご機嫌スキップ。  笑いながら駆けると、中庭にある俺の専用厨房が見えた。これはアイツが、俺にくれたもの。俺のものだ。  自分に隠密スキルをかけて、この先見つかっても誰にも認識されないように自分を隠す。  ドンッバタンッ 「あはっ、ぁ、ぅ……ッ」  飛びつくように扉を開けて、後ろ手に素早く扉を閉めた。  暗い厨房に入った途端、ガクガクと震えていた足がもつれて前につんのめり硬い床板に頭から崩れ落ちる。  ゴンッ、と頭を打った。痣になっていないといいのだが。 「はは、痛い、痛いな……笑うしかない、もうこんなの笑うしかないじゃないか。あははっ……、っは……ッ」  頭を抱えて蹲る。  大丈夫、今の俺は気配が消えている筈だから、誰も俺に気が付かないだろう。  ──誰も本当の俺は、見つけられないだろう。 「……ぁぁ、あ、ぁぁあぁあぁ……ッ!」  こうまでやって自分を透明にして。  それでようやく、俺は声を上げて叫ぶことができるのだ。  カタカタと震えながら胎児のように小さく丸くなり、頭を抱えてとめどなく溢れる涙を腕の中に隠す。 「あ、あぁあ、き、嫌いにならないで、こんなに痛い、痛くて苦しい、お願い、お願いだから、もう一度愛してくれ、なんでもするから、なんでもあげるから、ぜんぶあげる、だから、アゼル、あ、あぁ、」  纏まりもなく詰まった喉からひたすらに吐き出すのは、お前に似合わないからとひた隠していた、弱い俺。  演技なら、初めからしていたんだ。  お前が俺を忘れたと聞いて笑った時から、大丈夫だと言った時から、全部、全部、真っ赤な嘘。  失って泣きそうになったから、笑ったんだ。  被害者のお前を責めそうになったから、受け入れたんだ。  だってお前は悪くない。  悪くないのに、俺が勝手に傷ついて、俺が勝手に恋しくて、俺が勝手に諦められなくて。  俺とアゼルを見ていて、アゼルは俺がいないと駄目になってしまうから、きっとアゼルのほうが俺に抱えられて生きているように見えるのだろう。  いらないのに。  俺がいなくても、もうお前は幸せに生きていけるのに。  お前がいないと幸せに生きていけないのは、俺のほうなのに。 「俺を、俺との記憶を、いらないなんて、言わないで、」  諦められない俺は、なんて醜いエゴイスト。

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