286 / 615

第286話

「いつアゼルが、お前のものになったんだ……?」 「そんなもの初めて出会った時からだろう? 貴様なんぞは、この世界に存在すらしていたかったほど前だ。ぽっと出の虫ケラとは、わけが違う。僕はな、ずっとナイルゴウンの為に尽くしてやったんだ。それをあの男が、泥をつけて返した……ッ!」  バチンッ! 「グッ……!」  天使──メンリヴァーは睨みつける俺の横っ面を、力強く平手で打つ。  か弱そうな細い手なのに、首が飛びそうだと感じた。  何度も何度も、バシッ! バシッ! といたぶられ、唇の端から血が滲んだ。  意識が飛びそうな感覚。  けれどその全てを歯を食いしばって耐え、すぐに前を見据える。  ──聞いていれば、馬鹿げたことしか言わないな。  アゼルは物ではない。  どれだけ長く愛していても、尽くしてやっただとか言う言葉が出てくる時点で、アゼルを愛しているつもりで自分に酔っていたのがよくわかる。  だが、俺がそれをどれだけ訴えても、俺を襲った天使でも、メンリヴァーでも、少しも理解できないのだろう。  自分以外の者を愛せないなんて、とても悲しい人だな。  天使というのは、愚かで悲しい、寂しい生き物だ。 「なにか……言いたげだな。妃よ」  スルリと赤くなった頬に触れられ、そのまま顎を掴まれた。  無理矢理メンリヴァーのほうへ向かせられ、首が痛い。  メンリヴァーは嘲笑うように鼻を鳴らして、顎の骨が軋むほど、グッと指先の力を強くした。 「聞けば貴様はウィシュキスを切りながら、大層な御託を並べて、我ら天使を糾弾していたそうじゃないか。愚かで、低脳だと。笑えるな? ナイルゴウンを傷つけるのは貴様じゃないか」 「っ……、ふ……」 「貴様がいるから、我らはこの計画を考え、そして哀れなナイルゴウンは記憶を奪われ、疑心暗鬼の苦しみを二度繰り返す」  ──そうして語られた、計画。  弱い俺がいて、アゼルが俺をどこまでも深く愛したせいで、組み上げられた魔界の乗っ取り。  記憶の対象は、アゼルだったのだ。  ターゲットミスなどではなかった。  俺への贈り物で、俺が喜ぶと言えば、アゼルはもしかしてを天秤にかけても、受け取ることを選んだ。  アゼルのことだ。  俺を喜ばせる夢を見て、きっと疾く疾くと、城を目指して走ったのだろう。  そして、奪われた。  ただの聖導具ではない神遺物を使ったのも、人間ではなく耐性持ちの魔王が対象であるためだ。  その神遺物は、元々は完全記憶能力を持っていた古代の天王が、脳の負荷を抑えるために記憶を抜き取っていたものらしい。  ほんの僅かなスキだろうが、抵抗することはわかっていた。丸ごと百年は奪えない。  しかし、百年奪えなくても、アゼルが俺を忘れれば計画に問題はなかった。  必要なことは、記憶を奪うこと。  そして俺を、天界へ連れてくること。  それをこなせば後は簡単だ。  俺にだってわかる。  元のアゼルなら絶対に俺を見捨てないのだから、どう足掻いても上手くいく。  今のアゼルがなんとか俺を嫌って天界までやってこなかったとしても、元のアゼルは必ず来てしまう。  それだけならまだいい。  いやいいわけではないが、アゼルが従ってしまっても、時を掛ければいつか転機があるかもしれない。  問題はリシャールの時のように、敵が死んでしまえば俺も死んでしまうわけでも、俺が操られて敵になっているわけでもないということだ。  ──俺がそうしたように、アイツが戦うことを選んだら?  俺よりも取捨選択がはっきりしているアゼルのことだ。  もしかしたら、死んでも従わずに、天界ごと壊してしまおうと暴れるかもしれない。  自分以外の手元にあるなんて、アイツが何よりも怒り狂うことだ。  ……また、傷を負う。  俺とアゼルの大切な人達も、同じように大切にしてくれるからこそ傷つく。  そして魔力の地脈がある地上から離れ、聖力が満ち魔力の薄まる天界で戦えば、いくらアゼルでもきっと殺されてしまう。  だから天族にとっては、どちらでもいいんだ。  この計画でアゼルが従わなくても、弱体化する天界へ誘き出して取り囲み殺せば、同じこと。  自分達の王よりも強いと力を示せば、天族に従う魔族はたくさんいるだろう。  心が弱って壊れてしまい、なにもわからないほど怒り狂う、冷静さを欠いた魔王なら、勝機はあるのだ。 「……っ……、……」  全てを語られ悟った俺は、自分という存在の重さがアゼルを押しつぶすことに、唇を噛み締めて血をにじませた。  あぁ、また俺はアイツの枷。  傷つけるのは確かに俺だ。  それが耐えられないからせっかく死んだのに、どうして生き返らせたんだ。  世界。聞こえるか、世界。  そんなに……俺は、わがままだったか?  俺はただ、そばにいたかった。  嫌われていたって、忘れていたって、もういいと、嗚咽を堪えて決心だってした。  自分の気持ちの行きつく先より、アゼルの幸せを願える聞き分けのいい男になろうとした。  なのに、その決心を踏みにじるようなことばかり、今更聞かされてあちこちが痛い。  だめなのか。  一緒に生きていちゃ、だめなのか。 「ふふふ……わかったか? 貴様のせいで、ナイルゴウンの全てがデッドエンド。どん詰り。貴様のせいで、貴様が愛したから、愛されたから、魔界は天界の手に堕ちるのだ」  ──俺は生きてるだけで、大罪人だ。

ともだちにシェアしよう!