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第515話

 バタン、とオーブンに第一陣を詰め込み、手馴れた操作で稼働させる。  時間が経つと、厨房いっぱいにメープルの甘い香りが満ちるのだ。  考えただけでも幸せな瞬間である。  内心でウキウキとしながら、待ち時間の間に洗い物を終わらせようと腕をまくった。  すると遊び場からタローが俺の名を呼んで、手をこまねく。  むむ。おいでおいでをされたら、行くしかないな。  かわいらしいお誘いに、ゆるりと笑いつつ小首を傾げて近付いた。 「どうした?」 「あのね、まおちゃんどうしてつんしに来たのー? お菓子いっしょは、しない? くっきーおいしいよ〜?」 「ん? ええとな、アゼルは、ちょっといつもより長い出張に行かないといけなくなった話をしに来たんだ」 「しゅっちょー?」  どうやらタローは、アゼルが帰ってしまったのが不思議だったらしい。  ありのまま答えると、舌っ足らずなオウム返しでキョトンとする。  そうか。大人タイムだから聞こえていなかったな。  だからこそ不意打ちの甘噛みなんて、危ういことをされたのだが。  大人の俺でも胸キュンしたので、子供にあれは刺激的すぎる。 「出張。俺たちも一緒に行くんだが……タローは精霊だろう?」 「うん! そうなんだよ〜」 「ふふふ、だったらきっと行けば楽しい。卵だったから記憶がないかもしれないが、出張先は精霊界のお城。タローの故郷だ」 「っ、ぅえ……!」  きっと興味を持つと思い、何気なく告げた出張先。  けれどタローは驚いたように目を見開き、それからしゅんと目線を下げる。  これはどうも、いけない。  タローの唇が「うん、わかったよ」と紡ごうとするのを見て、俺はなぜか咄嗟に、タローの頭にポンと手を置いた。 「ぅ、……しゃる?」 「故郷でも、俺は心配。タローはまだ学校にも行っていないから、他国なんて遠い国へ行くのは、例え俺たちと一緒でも許せそうにない。楽しみを奪ってしまうけれど……」 「あ……」 「霊界への出張は、タローはお留守番。俺とアゼルで危険がないか見てくるからな」  ──だからタローはゆんちゃんたちと一緒に、お城で待っていてくれないか?  そう言うと、タローはぽかんとしたが、ゆっくりと強ばっていた表情を安堵させる。  そして丁寧にこくりと頷いた。  いいこだと言い、優しくなでる。  大丈夫。大丈夫だぞ。  今まで、自分が精霊だと自覚しているタローに、精霊界へ帰りたいかと聞いたことはない。  だからあんな顔をした理由はわからない。  しかし理由はわからなくても、自分の家族にはいつでも笑っていてほしい。  どんな理由であれ、タローが幸せであればなんだっていいんだ。  俺はニコリと明るく笑って見せて、両手をパシンと打ち鳴らした。 「さあ! マルオたちが取りにくる前に、クッキーを作ってしまわないと。そうしたらお昼ご飯まで、鬼ごっこをして遊ぶぞ? ふふふ、シャルは遊ぶのが好きだから、張り切って作るからな」 「あうぅ、しゃ、しゃるっ」 「んー?」 「あ、あり……う、私、くっきー待ってる! おにごっこもするよ!」  背を向けて歩き出そうとすると、背後から元気な声が聞こえる。  振り返ってピースをしつつ、俺は今度は少し茶目っ気を混ぜて笑った。 「愛してるぞ、タロー」  お前が精霊だとかは、俺には関係ない。  他種族だということの弊害は、もう胸がすり減る程承知している。  だって俺は人間で、アイツは魔族の王だから。  種族が違っても、血が繋がってなくても。  異性じゃなくても、世界が違っても。  俺とアイツは家族になれたんだから──お前とだって、家族になれるだろう。 (まったく……天使に大人気のアゼルだが、もしかして精霊にはタローなのか?)  洗い物をする為に水魔石のついた蛇口に触れながら、フッ、と笑いとも溜め息ともつかない息を吐く。  守るには敵が多くて大変だけれど、それでも譲れないものだから仕方がない。  できればもう操られたり死んだりは、したくないな。  けれど嫌な予感は当たるところが、俺が巻き込まれた異世界人であるが所以なのかもしれない。  しかしなにがあっても、もう離れないのだ。  俺は左手を握り、親指で薬指の彼をなぞった。

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