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第2話

 ───獣人?  リヴィオが僅かに目を瞠った直後。興奮した馬たちが一斉に暴れ出し、馬車の荷台がぐらりと大きく傾いだ。 「うわっ!」 「きゃあ……っ!」  立て続けに悲鳴が上がり、横転した荷台から、リヴィオたちは地面に放り出された。  砂埃の立ち込める乾いた地面に這いつくばったまま視線を上げ、その先に見えた光景に思わず息を呑む。  広がる草原の真ん中に、立派なたてがみを有した獅子の獣人の姿がある。それも一人ではなく、三人。  各々が弓や槍を構えており、その先には逃惑う小型の草食獣の群れ。  どうやら獣人たちの標的はリヴィオらの乗っていた馬車ではなかったようだが、今の騒音で彼らの狩りを邪魔してしまったらしい。 「馬鹿野郎! なんでヤツらの狩り場を通った!」 「日没までに到着を、とのことでしたので、こちらの道が早いかと……!」  焦った様子で言葉を交わす大人たちの声を聞きながら、リヴィオは呆然と獣人の姿を眺めていた。  ───あれが、獣人。  本や人伝てにその存在を知ってはいたが、実際に見るのは初めてだ。  獣人とは、獣が急速に進化を遂げた者たちだ。人間と同じ知能を持ち、立ち振る舞いも人間に近い。だが、獣本来の毛並みや牙、爪なども持ち合わせている。  国を築き、城を拠点に街や村を構え、他国とも交易を重ねながら集団で暮らす人間と違い、獣人は山や谷、海や砂漠など、それぞれの種族に適した土地で、自然と共に生活している。  そして、異種族との交流を好まないのが、獣人の特徴だ。  彼らは血統を重んじる風習がある為、各々の土地に異種族が立ち入ることを良しとしない。それは、獣の本能的な縄張り意識によるものだとも言われている。  種族にもよるが、獅子や虎、狼に熊など、体躯や力では、人間よりもはるかに勝る獣人は多い。  学者の中には、第二の性───特にΩ性に関しては、そんな獣人たちに淘汰されないよう、繁殖力を高める為に人間の遺伝子が変異したのではと言う者も居る。  実際、獣人にはαとβは存在するが、Ωは居ないと聞く。Ωの身に生まれたリヴィオからすれば、ただただ羨ましい限りなのだが。 「……殺される……」  傍に転がっていた少年の震える声に、リヴィオはハッと我に返った。  異種との交流を好まないらしい獣人は、今のところ人間たちとはうまく棲み分けが出来ているのだから、無闇に手出ししてくるとは思えなかったが、リヴィオより幼いその少年はすっかり怯えきっているようだった。  落ち着け、と手を伸ばすより先に、立ち上がった少年がどこへとも無く駆け出していく。それが合図とばかり、他のΩたちも次々に走り出し、監視の男が「おい、待て!!」と声を荒らげながら追いかける。  腰を抜かした御者も這うようにしながらそれに続き、気付けばリヴィオ一人が取り残されていた。  三人の獣人たちは、特に動く気配がない。逃げた彼らを追う様子もなく、かといってリヴィオの方へ近づいてくる気配もない。ただ、広い草原の中に佇むその姿は、とても気高く、凛々しく見えた。  等しく命ある生き物なのに、リヴィオよりずっと、「生きている」という感じがする。 「行け」  風に乗って、微かに声が聞こえた気がした。  え?、と瞬きをするリヴィオの視界で、獣人たちが背を向ける。そこでやっと、今置かれている状況を理解した。  傍にはもう誰も居ない。主の元へ向かう馬車も、御者と馬を失って、使い物にならない。  長い間奪われたままだった自由が、ようやくこの手に戻ってきた。  弾かれたように立ち上がったリヴィオは、考えるより先に、他のΩたちとは逆方向へと走り出した。  彼らのように、獣人たちから逃げようと思ったわけじゃない。この先に待ち受ける仄暗い未来から、とにかく逃げ出したいと思ったのだ。  先に逃げたΩたちもどうか無事に逃げきってくれと胸の中で祈りながら、リヴィオは土地勘もない乾いた土の上をがむしゃらに走った。  逃げ出したのはいいが、どこへ向かえばいいのだろう。  人生の約半分を『神のゆりかご』で過ごしたリヴィオには、今居る場所がどこかなんて見当もつかない。それに、考え無しに駆け出してしまったが、下手に誰かに見つかって、逃走したΩだと知られたら厄介だ。  いっそのこと、さっきの獅子の獣人たちについて行けば良かっただろうか。……いや、獣人は異種族を受け入れないのなら、それこそ彼らの怒りを買うことになるかも知れない。  なら、一体どうすれば───。  ぐるぐると思考を巡らせながら無我夢中で走っていたリヴィオは、うっかり足元の確認を怠ってしまっていた。  何もわからず駆け上がった小さな丘の向こう側が、急な傾斜の下り坂になっていることに、足を踏み出してから気が付いた。  しまった、と思ったときにはもう遅い。編み上げたサンダルは滑りやすく、踏み止まろうとした意思も虚しく、リヴィオの身体は勢いよく斜面を転がり落ちた。 「───ッ!」  派手な土煙と共に滑り落ちたリヴィオは、茂みをなぎ倒す形でやっと止まった。落ちた先が深い茂みに覆われていたお陰で、それが緩衝材になり、致命傷は免れたようだったが、擦り剝いてしまったらしいあちこちがヒリヒリと痛む。  主の元へ向かうのだからと着せられた真新しいリネンのシャツも、袖口が無残に破れてしまい、薄ら血が滲んでいる。怪我をしていない箇所も、全身砂まみれになっていた。 「いって……」  ヒリつく腕を擦りながら、のそりと身を起こす。落ちてきた斜面を見上げると、天辺はリヴィオを五人積み重ねても届かないのではと思うほど高い。下に深い茂みがあって助かったと、改めてホッと息を吐く。  しかしどうしたものか。  この急斜面は、落ちるのは一瞬だったけれど、登るとなると難しそうだ。辺りを見渡してみても、周囲は同じような崖や岩壁に囲まれていて、リヴィオの居る場所はまるで巨大な落とし穴のようになっている。  リヴィオと同じようにうっかりここへ落ちたのだろうか、少し離れた場所に、小さな獣の骨が見えて、背筋が冷たくなった。  人目がないのはありがたいけれど、このままだとリヴィオもあの獣みたいに、干からびて死んでしまいそうだ。  折角自由になれたと思ったのに、こんな場所で死ぬくらいなら、海に飛び込む方がよほどいい。  途方に暮れかけたとき。落ちてきたリヴィオを受け止めて潰れた茂みの奧に聳える岩壁に、小さな洞穴があるのに気が付いた。  入り口はかなり狭くて、どうにか人が一人通れるくらいだが、覗き込んでみると中は少し広く、穴自体も随分と奧まで続いているようだ。何より、洞穴の奧からほんの微かに漂ってくる、覚えのある香りに、リヴィオは目を細めた。  ───潮の匂い……?  子供の頃、港町で感じた海特有の潮風の匂いを、ごく僅かだが感じる気がする。港までは、まだ随分距離があるはずなのに。  どうせこのまま立ち止まっていても仕方がないのだからと、リヴィオは暗い洞穴の中へ恐る恐る足を踏み入れた。

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