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第4話

「俺、帰る場所が無いんだ」 「? 何故だ? まだ子供だろう」  不思議そうに、ゆっくりと瞬く銀色の瞳を見詰めて、リヴィオは返答に詰まる。  子供じゃない、と反論しようと思ったが、リヴィオは歳の割には幼く見られがちだし、大人だろうが子供だろうが、逃げ出してきたΩのリヴィオにはどのみち帰る場所はない。  人間相手なら、リヴィオくらいの歳のΩが一人で出歩いていれば、すぐに訳ありだと気付いて捕らえられるだろうが、そういえば獣人にはそもそもΩは存在しないのだ。  種族も違う相手に事情を話して、果たして理解が得られるだろうかと思ったが、リヴィオは男が何故この場所に居るのか知りたくて、自身のことも隠さず話すことにした。  Ωという性のこと。  リヴィオがそのΩであること。  人間社会でのΩの扱いや地位、ひいてはリヴィオ自身が今正にΩ性に翻弄されていること。  ひっくり返った小舟の底へ並んで腰を下ろし、隣で黙ってリヴィオの話に耳を傾けていた男は、全て聞き終えた後、「そうか」と短く呟いた。  憐みや同情の言葉をかけるでもないその声に、リヴィオは少し胸がすくような感じがした。  同じ人間同士でも、αやβ相手に、Ωは決して対等になれない。なのに隣に座る獣人は、リヴィオとこうして肩を並べてくれているのが、何だか不思議だ。 「命も性も、授かりものだというのに、上手くはいかないものだな」  リヴィオに、というよりは、独り言のように零して男が空を仰ぐ。その横顔は、やっぱり少し寂しそうだ。 「名は、なんという?」 「リヴィオ」 「……良い名だ」  リヴィオの名を聞いた途端、男の目許が柔らかくなって、ドキリと胸が鳴った。名前を褒められたことなんて初めてだからだろうか。 「魚獣族の言葉で、波は『リヴィア』と言う。皆、リヴィアの音を子守唄にして育つ。リヴィオの声が耳に心地良いのは、名が似ているからか」  そう話す男の声こそ、穏やかで優しい。こんな風にリヴィオと話してくれたのは、両親くらいだ。 「俺も、聞いていい?」 「何を?」 「名前」 「ああ……すまない。礼を欠いた。……ルカだ」  やっぱり不思議だ、と名乗ってくれたルカの顔を見上げてリヴィオは首を捻る。  顔立ちからすると、ルカはリヴィオよりは年上だろうが、それでもまだまだ若い部類の青年に見える。なのに、言葉遣いは『神のゆりかご』に居た大人たちより余程丁寧で紳士的だし、最初こそ銛を突きつけられたが、こうして話していると物腰もやわらかい。  閉鎖的で、獣人の中でも一際異種族との交流を嫌うという魚獣族の話は、実は真っ赤な嘘なのだろうかと思えるくらいだ。  けれどそんなルカは、共に波の音を聞いて育ったはずの魚獣族ではなく、人間のリヴィオと、この小さな入り江で、二人きりで話をしている。 「……ルカは、ここで暮らしてるの?」  聞いてもいいのだろうかと躊躇うリヴィオの胸の内を見抜いたのか、ルカが困ったように苦笑する。立派なヒレが、少し垂れ下がった。 「リヴィオの話を聞いた後では言いづらいが、俺は魚獣族のαだ。……だが、島を追われた」 「え!? α、なのに……?」 「俺の母が、人間だったからだ」  静かに告げられた言葉で、ルカの顔立ちがリヴィオの知る魚獣族とは随分違う理由が、やっとわかった。ルカの顔がこれほど人間に近いのは、リヴィオたちと同じ血が流れていたからなのか。 「でも、折角αに生まれたのに?」 「魚獣族は、昔から種族の血統を重んじる。異種族の血が混ざることは、許されていない」 「……なら、ルカの両親は?」 「俺が物心ついたときには、既に居なかった。父と懇意だったらしい族長からは、『島を去った』とだけ。それが両親の意思なのか、それとも一族に追われたのか、俺にはわからない。唯一、父が俺に遺したと渡されたのが、この首飾りだ。母から貰ったものだと聞いた」  ルカが、胸元の首飾りを摘んでみせた。手作りなのだろうか、細長い貝殻が五つ並んだシンプルなものだが、それぞれの貝殻はルカの髪と同じで、光に翳すとキラキラと虹色に光ってとても綺麗だ。 「子供だった俺は、族長の恩情で一族に混ざって育ったが、やはり居心地は良くはなかった。そして族長亡き後、新たに長の座に就いた者に島を追われたのが、もう五年以上前のことだ」 「そんなに……!? じゃあそれからずっと、ルカは独りで……?」 「島を出てすぐの頃は、身を隠す場所を探し求めて、転々とした。俺たち魚獣族は、水中での移動には困らない。その点では、海を自由に行き来出来るのが有難かった。……そして、この入り江を見つけた」 「ん……? それじゃ、この舟は?」  自分たちが腰掛けている小舟を見下ろしたリヴィオの隣で、ルカが小さく笑った。 「これは、嵐の後に流れ着いてきたものだ。この入り江の付近には、獰猛な鮫を回遊させている。人間には申し訳ないが、お陰でこの入り江に海からは近づけない。『無還の底』に落ちて無事だった者など居なかったから、リヴィオを見た瞬間、咄嗟に威嚇してしまった」  すまない、とルカが足元に置いた銛を見下ろして言う。  本当に偶然とはいえ、突然踏み込んで来てしまったのはリヴィオの方なのに、謝られてしまって胸がしくしくと痛んだ。  人間は、家族から奪ってでもΩを集め、一人でも多くのαを残そうと必死になっている。  一方の魚獣族は、血統を守る為ならば、例えαであっても排除する。  それぞれの都合で、居場所を失ってしまったリヴィオとルカ。  ここへ辿り着く前に見た、獅子の獣人たちのように、堂々と自由に生きることは許されないのだろうか。等しく与えられた命のはずなのに───。 「しかし、どうしたものか。帰る場所が無いリヴィオを、送り届ける場所が無い」  ようやく出番がきたと思ったが…と、ルカが傷みの激しい小舟を撫でる。  仮にリヴィオに帰る場所があったとしても、ルカはこれから先もずっと、この小さな入り江でたった独りで過ごすのだろうか。今なら、ルカの背中や横顔が寂しげに見えた理由もわかる気がする。 「……俺も、ここで暮らしたい」  気が付けば、口が先に動いていた。ルカの目が、驚きに大きく見開かれる。 「馬鹿なことを……ここは、リヴィオには決して快適な場所ではない」 「そうかな。少なくとも、俺が居た施設よりはずっと快適に思えるけど」 『神のゆりかご』では、誰かとこんな風にゆったり過ごす時間なんてなかった。大人たちはΩを繁殖と商売の道具としてしか見ていなかったし、Ωたちはいつ見知らぬ相手の元へ送られるのかと怯えてばかりだったから。  それに逃げ出してきてしまったリヴィオには、きっとどこへ行っても快適な生活など送れない。だったら、ここでルカと過ごす方がずっといい。  こんな自然の中で暮らした経験なんてないけれど、何より目の前の優しい獣人を、これ以上独りにしたくはなかった。  草原で「行け」とリヴィオの背を押してくれた、あの気高い獅子のように、自分の生きる場所を自分自身で選びたい。 「もう二度と、他者と関わることなど無いだろうと、思っていたのにな」  首飾りに手をやって呟いたルカの声は、波音に紛れてリヴィオの耳には届かなかった。

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