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第5話

「いっ……!」 「少し沁みるが、我慢してくれ」  リヴィオの腕の傷口に、ルカが揉んで柔らかくした大きな葉をそっと巻き付ける。滝の周りに咲いている、赤い花の葉だ。  ルカ曰く、この花は海の近くに咲く花で、葉には殺菌作用があるが、花弁には毒があるという特殊な植物らしい。武器にも薬にもなるその花は、魚獣族にとっては欠かせないものらしく、ルカがこの入り江を住処にすることを選んだ理由の一つは、馴染んだこの花があったからなのだとか。  身体のあちこちに出来た擦り傷へ丁寧に葉を当てて貰っているうちに、陽はすっかり傾いて、空は薄闇に染まりつつある。本当なら、今頃は主の元へ向かう船に乗っているはずだった。  海の向こうへ沈みかけている太陽を眺めながら、他のΩたちはどうなっただろうとリヴィオは目を細める。捕まって、酷い目に遭っていなければいいのだが。  心配が顔に出ていたのか、ルカの大きな手がくしゃりとリヴィオの髪を撫でた。人間のそれよりも鋭い爪が触れないよう、そろりと手が離れていく。 「腹は空いていないか、リヴィオ」  唐突に聞かれて、リヴィオはポカンとルカの顔を見上げる。 「そういえば、朝から何も食べてないから、ちょっと減ってるかも……」 「空腹のときに、考え事はするべきではない。思考が悪い方へと向きがちになる」  これは俺の経験に基づいた話だ、とルカが笑って、彼が励ましてくれていることに気付いた。  この入り江に辿り着いたとき、とても神秘的な場所に思えたのは、優しいルカが守り続けているからなのかも知れない。 「ところで、人間は何を食す?」 「え? そうだな……野菜に果物、玉子に肉にさか───」  魚、と言いかけたところで、ルカのヒレが目に留まって、リヴィオは慌てて口を噤んだ。さすがに魚獣族の前で魚を食べると言うのは不味いだろうと思ったのだが、ルカは意外にも「魚も食すのか」と落ち着いた声で返してきた。  なら丁度いい、と銛を手にしたルカは、慣れた足取りで波打ち際へと歩いていく。普通なら波に行く手を阻まれそうだが、まるで波の方がルカを避けるように、彼はどんどんと海の中へ溶け込むように進み、そのまま静かに水中へと姿を消した。  シンと静まり返った入り江に、波の音だけが響き渡る。 「ルカ……?」  ルカが海に帰ってしまったような気がして、急に不安になったリヴィオが波打ち際に駆け寄ると、波の間からスッとルカの長身が現れた。握られた銛の先では、立派な魚が身をくねらせている。  水を払うように、フルフルと頭を振るルカの仕草は、彼に獣の血が流れていることを知らしめていた。夕闇の中で濡れて輝く髪やヒレは、幻想的な美しさを放っている。 「早い内に食せ」  ぼうっと見惚れるリヴィオの目の前に、水の滴る手で銛から引き抜いた魚を、ルカがズイッと差し出してきた。彼の手の中で、魚はまだ何度も尾を跳ねさせている。 「え……っと、早い内にって言われても、コレまだ生きてるし……」  というか、そもそも魚獣族は、魚を食べることに抵抗はないんだろうか。さっき、鮫に回遊させていると言っていたし、ある程度意思の疎通が出来るなら尚更食べるのはどうなんだ…と戸惑うリヴィオに、ルカもまた困惑げな顔をした。 「だから早く食せと言っている。でなければ死んでしまうぞ」 「生きたまま食べろってこと!?」 「? 何か問題が?」 「中にはそういう人間も居るかも知れないけど、少なくとも俺は、生きた魚は食べたことない」 「ならば、人間はどう食す?」 「死んですぐなら、生で食べることもあるって聞いたことはある。でも、俺は港から離れた場所で暮らしてたし、焼いたり煮たり、揚げたり……?」 「焼く……火に入れるのか」 「入れるというか、翳すというか……魚獣族は、生きた魚を食べるの?」 「俺たちは、生きた状態でしか食さない。そうすることで、食したものは、俺の中で生き続ける。だから、俺もその命を継いで生きる」  野性的だ、なんて軽く考えていたリヴィオは、思いもよらない返答に言葉が出なかった。  食べたものが自分の中で生き続けるなんて、考えたことがなかった。リヴィオだけでなく、そんな人間の方がきっと多いに違いない。  生きる為に食事をしているのに、それが当たり前になっていて、挙げ句思い通りにならない人生を悲観して、身を投げようとまで考えてしまった自分が恥ずかしい。  誰も寄り付かない入り江で、たった独りで過ごす日々が、ルカは嫌になったりしないのだろうかと思ったけれど、彼は自分以外の命も背負って生きているのだ。 「……人間って、どこまでも傲慢だ」  命を継ぐどころか、人間はまるで神にでもなったかのように、優れた子孫を残す為に命を利用している。  こんな愚かな種に、何故第二の性なんてものが与えられたのだろう。それとも第二の性が与えられたから、人間は驕りたかぶるようになってしまったのだろうか。  人間のΩとして生まれたリヴィオはルカにはなれないけれど、せめて少しでも近付きたくて、まだ弱々しく跳ねている魚を受け取ると、リヴィオはがむしゃらに齧りついた。 「……うっ」  慣れていない所為もあって、口いっぱいに広がる血生臭い味に、一度飲み込んだ肉片が逆流しそうになる。 「無理をするな、リヴィオ。人間は、生きたまま食す習慣は無いのだろう?」 「でも、ルカとここで暮らすなら、慣れないと」 「ならば、俺がリヴィオに合わせよう」 「それじゃあ、命が継げない」 「その考え方は、あくまでも魚獣族のものだ。種族が違えば、思想や習慣も違うのは無理もない。それに、島を追われた時点で俺はもう、魚獣族としては一度死んだも同然だ」 「そんなことない!」  今日出会ったばかりだというのに、何故か切なさともどかしさが込み上げてきて、リヴィオは咄嗟にそう叫んでいた。  ルカほど真っ直ぐに生きている者を、リヴィオは他に知らない。家族以外に、これほどリヴィオに向き合ってくれた相手は居ない。  だから、そんな哀しいことを言わないで欲しい。 「俺は十歳の頃から施設で育ったから、魚獣族のことは全然知らない。他の獣人のことも知らないし、人間のことだって、αやβに比べたら知らないことはいっぱいあると思う。でも、そんな俺でも、ルカが優しくて綺麗で強い獣人だってことは、わかる」 「リヴィオ……」  呟くようにリヴィオの名を口にしたルカの手が、少し躊躇いがちに頬へと伸びてくる。爪で傷つけない為か、曲げられた指の背が触れた。人間の指とは違う、少しざらついた感触がリヴィオの頬を辿る。 「人間とは、案外見る目が無いのだな」 「え?」 「リヴィオは、Ωとして価値がないから、見知らぬ相手の元へ引き渡されると言っていただろう。だが、俺の目にはリヴィオはとても美しく見える」  美しい、などと耳慣れない言葉を寄越されて、思いがけず胸が鳴る。  リヴィオはΩの割には容姿に恵まれている方だと、『神のゆりかご』で言われていたが、外に出ればリヴィオより見目の良い人間なんて、それこそいくらでも居る。今回、比較的すぐに引き取り先が決まったのも、リヴィオのカナリア色の髪が主の好みだったからという理由だった。  ルカの髪や瞳やヒレのように、特別目を惹く箇所がある容姿では断じてない。 「俺は、ルカみたいに綺麗じゃない。俺が美しく見えるのは、ルカが他の人間をちゃんと見たことないからだと思う」 「だとすれば、それはリヴィオも同じだろう。獣人のことをよく知らないのに、俺を綺麗だと言った」 「それは、そうだけど……」 「リヴィオは綺麗だ。とても。月の色をした髪も、珊瑚色の瞳も、砂浜に似た肌の色も」  おとぎ話の中で姫を口説く騎士のような言葉を並べられて、気恥ずかしいやら嬉しいやらで、カアッと頬が熱くなる。 「……ルカって、いつもそんな物言いなの」 「物言い? 口調のことか? 俺が族長に育てられたからというのもあるかも知れないが……聞きづらいか?」 「そういう意味じゃないんだけど……でも、ルカはそのままでいいと思う」  どうやら自覚がないらしいルカは、よくわからないとばかりに首を傾げている。  この入り江みたいに、ルカの言葉も、自分だけの秘め事にしておきたいと思ってしまったから、やっぱり人間は傲慢だ。

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