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第7話
その日は、朝からどんよりと分厚い雲に覆われた曇天だった。
まだ魚を生け捕りするのは苦手なリヴィオの為に、ルカは昼食用の魚を獲りに海へ出ていた。
ルカの帰りを待ちながら、火起こしの準備をしていたリヴィオは、何だか足元が覚束ないことに気付いた。
異変に気付いてその場に腰を下ろしても、まだ身体が波間を漂っているみたいにフラフラしている。おまけに今日は陽射しがない所為で肌寒いくらいなのに、今は妙に身体が熱い。
リヴィオはこの入り江に来た翌日の夜、熱を出した。
疲労や環境の変化によるものだったのか、ルカが手厚く看病してくれたお陰ですぐに熱は下がったが、最近気温の低い日が続いていたから、その所為でまた熱が出ているんだろうか。
けれど、前回発熱したときと違って、身体がやけに重怠い。特に下半身が、まるで見えない何かにまさぐられているように、ざわざわして気持ちが悪い。
とうとう座っているのも辛くなり、浜辺に横たわったところで、リヴィオはやっと、異常な熱の中心が自身の下肢であることに気が付いた。
さすがに二十歳にもなれば自慰の心得くらいはあるが、そんな軽い欲求じゃない。むしろ、リヴィオの意思なんて関係なく、触れてもいない性器がズクズクと疼いているのだ。
いくら最近触れていなかったとはいえ、こんな状態になったことなんて一度もない。
もうすぐルカが戻ってくるのに、という後ろめたい思いと、早く戻ってきて助けて欲しいと縋る思いが交錯する。
今にも、簡易なローブの下で爆ぜそうになっている自身の熱を持て余して身を捩っていると、大きな魚を担いだルカが波間から姿を見せた。
「リヴィオ……!?」
普段ならどんなに大きな魚でも生きたまま食べるルカが、リヴィオの異変に気付いて、魚と銛を海へと放り投げた。
「ル、カ……」
───触れたい。
漠然とそう思って、震える手を伸ばす。
ところが、一歩踏み出したところで何かを察したように愕然としたルカは、そこでピタリと足を止めた。
「ルカ……?」
「……駄目だ。俺は今、リヴィオに近付けない」
リヴィオよりも苦しそうに顔を歪めて、ルカが静かに首を振る。
拒絶の言葉が、不安に揺らぐ胸にズキリと刺さった。
「なんで───」
「リヴィオが、発情しているからだ」
絞り出すようなルカの声に、今度はリヴィオが愕然と目を見開いた。
───発情? どうして? 俺は『欠陥品』のはずじゃなかったのか?
発情期を迎える時期には個体差があるとは聞いていたが、リヴィオはそれがかなり遅い例だったということなのだろうか。
何にせよ、これが発情期だというのなら、益々リヴィオにはどうしていいのかわからない。だって自分には、一生無縁なものだと思っていたのだから。
ここに居るのは、リヴィオとルカの二人だけ。Ωとαの、二人だけ。
「ルカ……助けて……」
「助けてやりたいが、俺には出来ない」
「俺が、人間だから?」
「違う!」
珍しく声を荒らげたルカが、堪えるようにきつく眉根を寄せる。
「発情は、本来獣の習性だ。俺たち獣人は、αでもβでも、特定の時期が来れば発情する。時期でなくとも、今のリヴィオのように、他者の発情にあてられることもある。そうなれば、到底理性で本能を抑えることが出来ない。獣人にΩが居ないのは、αとβによって滅ぼされたからだという説もあるほどだ。……俺も、恐らくリヴィオを苦しめる」
苦々しく語るルカを見詰めて、絶対嘘だ、とリヴィオは口許だけで弱々しく笑った。
例え理性を失ったとしても、ルカはきっと他のどの獣人よりも優しい。理性より本能が勝るというのなら、発情しているリヴィオは有無を言わさず襲われていたっておかしくない。
それに、ルカにされることなら、それがどんな行為であっても、苦しいなんて思わない気がする。たった二人しか居ないこの状況で、目の前のルカに触れられないことの方が、リヴィオには苦しくて堪らない。
「……ルカ。第二の性って、どうしてあるんだと思う?」
「リヴィオ……?」
突然なにを、と言いたげに、ルカが困惑の表情を浮かべる。
力の入らない腕を支えにどうにか身体を起こして、リヴィオはルカを見詰めた。
「俺さ……世界が全部、この入り江みたいだったらいいのにって、思うんだ。綺麗事だって言われるかも知れないけど、種族とか性別とか、そんなの関係なく、自由に生きて、自由に誰かを好きになって、大切な相手との子を産んで……命を継ぐって、そういうことじゃないの。───ルカの両親が、そうだったみたいに」
息を詰めたルカの銀色の瞳が、戸惑いに揺れている。
ルカが踏み出すのを躊躇っているので、砂浜を這って、リヴィオの方から近付いた。
「ごめん、ルカ。俺は人間だから、傲慢なんだ。ルカみたいに、優しくも、紳士的にもなれない」
腰布からスラリと伸びた長い脚へ、そっと掌を這わせる。鱗の浮いた箇所は魚みたいに滑らかだけれど、それ以外の皮膚は鮫に似てざらついている。青い肌を辿るように膝の上まで撫で上げたところで、不意に手首を強く掴まれた。
反射的に顔を上げると、ルカが真剣な眼差しでジッとリヴィオを見下ろしていた。
「リヴィオ。俺は、海から離れられない。だからリヴィオには、良い暮らしをさせてやれない」
「『良い暮らし』っていうのが、立派な家で贅沢に暮らすことを言ってるなら、俺はここの方がいい。ルカが居てくれる方が、ずっといい」
ここへ来て、ルカに出会って、リヴィオは家族と離れてから初めて、生きることが楽しいと思えた。
ルカは島を追われて安堵したと言っていたが、それはリヴィオも同じだ。もしも馬車が予定通り港に到着していたら、リヴィオを待っていたのは、きっと自由なんてまるでない、息苦しい日々だったに違いない。
生まれて初めて、自分で選べた道だから、それを与えてくれたルカには、ずっと傍に居て欲しい。
例えΩが誰かれ構わず発情する生き物だとしても、求める相手を、自分の意思で選びたい。等しい命なのだと、思わせて欲しい。
「この入り江から一生出られなくとも……それでも、俺と共に、生きてくれるか」
「ルカが居るならそれでいい。だから───俺を、世界で一番幸せなΩにして」
リヴィオの願いに、地面に膝をついたルカが、深い口づけで応えてくれた。
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