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第3話
秋廣と出会ったのは、瑠佳が八歳の時だった。
母親が病で亡くなったばかりで、父親は店の切り盛りに忙しく、寂しかった瑠佳は賑やかな街にいることを好んだ。
日も暮れかけ、腹がぐぅっと鳴る。
春先とはいえ夕方になると寒い。ふと顔を上げるとケーキ屋のショーウィンドーの前で、空腹に拍車をかけた。
「お腹空いたなぁ」
家に帰れば父親が夕飯を作ってくれるが、この日はどうしても自宅に足が向かなかった。テレビと向き合い、一人で食事する気になれなかったのだ。
「こんなところでどうしたの?」
背後から突然声をかけられて、驚いて振り返った。
詰め襟の制服を着た端整な人が、とても綺麗な瞳で見つめている。
「あ、あの……」
赤面し、視線が泳いだ。もしかしたら家に帰れと注意されるかもしれない。こんな時間に小学生が一人でフラフラしていいはずがない。
自分の行動の後ろめたさにドキドキしていると、青年は微笑んだ。腰を折って一緒にショーウィンドーを覗き込む。
「美味しそうなケーキだね。君は何が好き?」
「えーっと……苺のショートケーキ」
「いいね。僕も大好きだ」
躊躇うことなく店に入っていくと、青年は店員と言葉を交わし、苺のショートケーキが詰められた箱を手に戻ってきた。
「はい、プレゼント」
「プレ……ゼント?」
箱を手渡されてぽかんとしていると、青年は楽しそうに笑った。
「僕と君が出会った記念日だからね。お祝いだよ」
「でも、知らない人から物をもらっちゃいけないって……」
父親に厳しく言われていると伝えると、彼は瑠佳の頭を撫でた。
「じゃあ、今日から僕と君は友達だ。僕の名前は秋廣。君の名前は?」
「瑠佳」
「瑠佳か。素敵な名前だね。今度僕の家に遊びにおいで。歓迎するよ」
秋廣と名乗った青年は、一際高い壁にこんもりと緑が茂った屋敷を指差した。
「あそこが僕の家だから」
「あそこがお兄ちゃんのお家?」
「そうだよ」
幼い瑠佳だって知っている。いや、この地域に住む人はみんな知っている。公園のような大きなお屋敷には、『岸田さん』という偉い人が住んでいることを。
瑠佳は秋廣と別れると急いで家に帰った。
そして厨房で忙しくしている父親に叫ぶ。
「お父さん! 僕、『偉い岸田さん』にケーキ買ってもらっちゃった!」
「はぁ?」
手を止めてすっとんきょうな声を上げた父親は、最初瑠佳の話を信じてくれなかった。しかし、手に持つ苺のショートケーキや瑠佳の必死な形相に最後は信じてくれた。その後、お礼に父親が焼いたオレンジピールとチョコレートのマフィンを持っていくよう言われたのだ。
翌日岸田邸を訪れた瑠佳は、屋敷の中から本当に秋廣が現れて、『偉い岸田さん』の家に住む青年なのだと改めて実感した。
それはとても不思議な感覚で、ちょっとだけ気持ちがふわふわした。
当時のことを思い出すと、今でも笑ってしまう。『偉い岸田さん』なんて、漠然としたイメージしか持っていなかった幼い自分を。
「何ニヤニヤしてんのよ」
「鞠子(まりこ)さん」
リネン室でシーツにアイロンをかけている時だ。昔を思い出して口元を緩めていると、使用人仲間の板野(いたの)鞠子に声をかけられた。
「別になんでもないですよ」
緩んでいた口元を引き締めて鹿爪らしく言うと、肘で突かれる。
「やだっ! 純情そうな顔して、瑠佳くんでもエッチなこと考えるんだ」
「だから、そんなんじゃないですって!」
慌てた瑠佳に、朗らかに彼女は笑った。
長い髪を高い位置で結わき、くりっとしたアーモンドアイをした鞠子はベータだ。年齢も近いので言葉を交わすことも多い。
この屋敷には、岸田家の人間以外アルファがいない。
二十人ほどいる使用人はみなベータで、オメガは瑠佳のみだ。
本来なら、主一族がアルファの場合、オメガは使用人として雇ってもらえない。
なぜならアルファを惹きつける性フェロモンを発するオメガは、ヒートという興奮状態に入ったアルファに、見境なく強姦されるかもしれないからだ。
そうして子どもでもできてしまえば、使用人に手を出したと外聞も悪く、追い出したところで養育費や生活費など金がかかって仕方ない。
幸運にもアルファとオメガが相思相愛になり番になれればいいが、そういったパターンは少なく、冷静になった主に屋敷を追い出され、母子家庭になるオメガも多い。
こうした不幸を減らすべく、通常はアルファの屋敷にオメガの使用人はいないのだ。
しかし瑠佳は特例中の特例だった。
自宅が全焼し、父親も亡くし、住まいも職も失った瑠佳を助けてくれたのが秋廣だ。
家族のように親身になり、父親の葬儀まで執り行ってくれた秋廣は、周囲の反対を押し切って瑠佳を屋敷に住まわせると、使用人という職まで与えてくれた。
そのおかげで路頭に迷うことなく、こうして毎日働いている。
秋廣には感謝してもしきれない。家が近所だったというだけで小さい頃から可愛がってくれ、面倒を見てくれ、将来まで誓ってくれた。
アイロンをかけ終えたシーツを持って主寝室へ向かい、ベッドメイキングを済ませる。
涼しくなった風に金木犀の香りを感じながら、裏庭で洗濯物を取り込んでいる時だった。
「今日も精が出るな」
岸田家の住人のように間取りを熟知している三峯が、木の陰から現れた。
今日は日曜日ということもあって、黒いVネックのニットソーにジーンズというラフな格好をしている。
つんっと取り澄まして瑠佳は返事もしなかった。
男らしい顔を歪め、苦笑しながら三峯が近づいてくる。
「大好きなご主人様はどこに行ったんだ?」
「本日はお仕事です。休みにわざわざ他家の使用人をからかいに来る人と違って、秋廣様はお忙しいんです」
嫌味たっぷりに言うと、彼はさらに笑った。
「まぁ、岸田商事は九月決算だからな。今が一年で一番忙しいか」
干されていたタオルをカーテンのように除けると、三峯が隣にやってきた。
「……今日もいい匂いがするな」
「……っ!」
すっと距離を詰められて、耳裏の匂いを嗅がれた。
反射的にそこを手で押さえると、逃げるように一歩退く。
真っ赤になった顔で睨むと、ジーンズのバックポケットに手を突っ込んだ三峯が、意味深に口角を上げた。
「お前だって俺の匂いに反応してるんだろう?」
「そんなわけ……っ」
ない! とまで否定できなかった。
さっきからくらくらするほど感じる香り。
金木犀に混ざって、鼻腔を擽る芳香。
野性味を帯びたムスクを思わせるそれは、瑠佳を甘く酔わせていた。
今すぐ抱きつきたい衝動。
唇を貪り合い、服を脱ぎ捨てて抱かれてしまいたい。
しかし瑠佳は奥歯を噛み締めると、自らを戒める。
これは意志とは関係ない、生理現象のようなものだ。勢いに任せて抱かれてしまったら、きっと後悔する。
理性的に考えろ! 自分は秋廣のために純潔を守ると決めたんだ。窮地を救ってくれた、尊敬する秋廣のために。
「僕は……あなたを『運命の番』だと認めていません」
「認めるも何も、感情を抜きにして惹かれ合うんだから仕方ないだろう?」
「こんなものは、まやかしです」
「お前がそう思いたいんなら、それでもいいさ」
ため息をつくと、彼は瑠佳の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「また遊びに来るよ。今度は秋廣がいる時に」
背を向けて去っていく男に、洗濯物を投げつけたい気持ちだった。
父親の死を乗り越えて、やっと手に入れた平穏。
主に大切にされ、使用人仲間とも上手くやって、毎日が幸せなはずだ。
なのにこの男が現れると、急に足元が揺らぐ。
心の中をかき乱し、不安にさせ、足りないものがあるんだと突きつけてくる。
――三峯さんなんか、大嫌いだ!
いつの間にか空は曇っていた。
日は隠れ、風も冷たくなり、瑠佳はぶるりと震えた。
ぽつりと頬に雫が落ちて、空を見上げる。
突然降り出した雨に、急いで洗濯物を取り込んだ。
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