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「最期の日」3
神は不在だ。
というより、僕の抱える願いも思いも。
決して叶えられてはならない物だ。
こんなところに現れるぐらいなら。
もっと別の人を救ってほしい。
だからと言って、捨てられるわけではない。
この感情を手放せるほどは大人じゃない。
二度と会えなくなる事はが理解できないほど子どもじゃない。
だけど、それでも、すぐに切り替えられない。
人間は忘れる事が得意なはずなのに、大事な物は手放せない。
貴方との記憶は全て、僕にとってかけがえのない物だった。
いっそ嫌いになれたら楽なのだろうかなんて考える。
けれどそんなはずはないし、そうはなりたくない。
楽しかった記憶を、今が辛いからと塗り替えたくはない。
その瞬間に確かに感じた幸せまで、真っ黒にする事はない。
ただ、もう一度あなたに会いたい。
そして出来れば、その少し掠れた低い声で。
僕の名前を呼んでほしい。
一番最初に忘れるのは声だと言う。
忘れたくない、貴方の声も、ぬくもりも、何もかも。
なんて傲慢なんだろうか。
……『ぬくもり』と言ったものの。
僕は最後に貴方へ触れたのがいつかすぐには思いだせない。
貴方に触れたのなんて、ずいぶん前のような気がする。
手を繋いで歩いたりしたのは小学校低学年までだ。
そんな事をするのは恥ずかしかったから。
「うん、これで一人でどこへでも行けるねぇ」
なんて、まだ老いていなかった貴方が笑ったのを覚えている。
実際には小学校の低学年が行ける場所等限られている。
それでも彼は、僕に無限の可能性を与えてくれた。
夢を見るのが好きな人だった、と思う。
そして、夢を魅せるのが上手な人でもあった。
応援する事も、支える事も。
僕のネガティブが過ぎて一度。
自分自身を棚に上げて、彼を責めた事がある。
やりたい事の背中を押してくれているのに。
自分で選んだ道なのに、上手くいかないのを誰かのせいにしたくて。
根拠のない事を何故言えるんだ、と子供じみた怒りをぶつけた。
彼は静かに目を閉じて、しばらく考えてから淡々と僕に話しをした。
そこに怒りは無く、ただ思う事を述べる、という表現が合うものだった。
「他人を否定し可能性を潰すことは簡単だからね。
その人のやる事をすべて否定してやればいいのさ、誰でも出来る。
だが、それを面白いとは微塵も思わないんだよ私は」
それから真剣だった表情は柔らかくなった。
希望を諭すのにふさわしい、明るく朗らかな、だが落ち着いた声だった。
「人は根拠のない事を信じれば強い、だから自分を信じて欲しい。
今日みたいに私に感情をぶつけても構わないよ、君なら。
それで君がまた前に進めるのなら私は何度でも相手になろう」
彼はわざと、『悪い事をたくらんでいます』。
と、言わんばかりに口の端を片方だけ上げて笑う。
そしてそれから少しの間、彼から表情が消えた。
「君は明日がある事を疑わずに努力をしてきたはずだ。
だが……明日がある保証なんて誰にもないんだよ」
話す言葉の語気は穏やかだけれども強さをふくんでいた。
そして普段は見せない影を僕は、あの時初めて彼に感じた。
『明日がある保証なんて誰にもない』
その言葉が僕の胸を深く抉っていく。
……話が逸れてしまっている。
今僕が考えていたのは、最期にいつ触れたか、だ。
貴方の思い出は沢山あって、少々困る。
今、思いだせるうちに。
たくさんの記憶に寄り道をしたくなる。
そうだな、触れたのは多分……。
貴方がよろけた時だった気がする。
私も随分老いたものだね、なんて言いながら。
触れた指先は細く、皺と血管、骨が目立っていた。
もう既に、調子が悪かったのかもしれない。
いつも背筋をまっすぐに伸ばし、年を感じさせなかったから。
貴方はいつまでも元気で、頼りになる人だと思っていた。
そして根拠なく、明日を信じていた僕は貴方と次に会う約束をしていた。
僕が上手く時間を作れなくて、流れてしまった予定だった。
彼も「気にするな」と言って笑っていたし、電話越しの声は元気そうだった。
のんびりな君らしいね、とも言っていた。
たった一日、ずれただけ。
間違いなく僕は、また貴方に会えると思っていた。
その電話が最期になるとは思っていなかった。
僕は貴方の恋人だった訳じゃない。
家族のみで行われた葬儀に、参加できる親戚でもない。
まぎれもなく、ただの『友人』だった。
「もう一度だけ、会いたかった……」
途中から静かに溢れていたのには気付いていた。
けれど思い出を辿る間、動きたくなくて。
言葉と同時に、僕は涙を拭った。
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