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10.母との電話

 学校から帰った奏太は、自宅の玄関を開いた。タワーマンションの上層階にある彼の家は、リビングの窓から都会の街並みを見下ろせる。夕方から夜に変わっていくコントラストが美しい。その一方で日光だけに頼ったリビングは薄暗くなっていった。奏太は絵画のような景色を背にしてソファに腰掛けると、スマホからとある人物に発信した。  数回のコールの後、はい、と短く女性が返事をした。 「もしもし……、母さん。今、大丈夫?」 「あ、ちょっと待って。……ごめん、外すね」  相手は、電話の向こうの誰かに断りを入れた。まだ仕事中だったのだろう。周りが騒がしい。カツカツとハイヒールの踵をせわしなく鳴らす音が響いている。  彼女……理代は奏太が幼い頃に出ていった奏太の母親だ。父親と離婚後はずっと音信不通だったが、中学生のころ、彼女から接触してきて、以来時折、会ったり電話でやりとりをしている。確か、通信営業の会社の社長らしい。奏太がいつ電話しても彼女は忙しそうに働いていた。  理代はこちらが要件を言う前に口を開いた。 「あんたさ、このあいだのパーティ、うまくいったの?」 (パーティ? ……ああ、あれか)  一瞬、なんのことか分からなかったが、すぐに思い当たった。  先日、鈴井の誕生日だった。カラオケで誕生日会をするということで、奏太も呼び出されたのだ。……財布要員として。  大人数の飲み食いの料金にお金が足りず、理代に電話をして送金してもらったのだった。 「うん、すごく喜んでくれたよ。ありがとう」 「やっぱり、持つべきものは友達だよねー。あたしも若い頃めちゃくちゃ遊んだからよく分かるよー」  何もわかっていない母親は耳元で屈託なく笑っている。それを奏太は暗い気持ちで黙って聞いて、本題に入るのを待った。 「で、あんたから電話かけてきたってことは、またお金欲しいの?」 「うん、まあそんなとこ」 「本当、息子ってのは薄情な生き物だねー」  お前に言われたくない。  喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込む。何も言わない奏太に彼女は呆れたようにため息をついた。 「で、いくら?」 「五万円」 「何に使うのさ?」 「友達と旅行行こうと思って」  もちろんそんな予定なんてない。そんな友達もいない。  あっさり騙されると思ったが、理代はからかうような声で疑ってきた。 「本当に、友達~?」 「友達だよ……」 「まあ、いいわ。彼女できたら紹介ぐらいしなさいよ。あたしのお金で旅行行くんだから」 「だから友達だって」  くだらない茶番。  奏太は早く電話を切りたくてイライラしてきた。明日振り込むという言葉を聞いて、とりあえず安堵する。その後も少しの間、くだらない雑談は続いた。  そして、電話を切る時、理代は付け足すように言った。 「何かあったら相談してね。あたし、パパと違って理解あるからさ」  彼女の口から父親が出てきて、嫌悪感に鳥肌が立った。まるで自分の所有物みたいな口ぶりだ。 (親父となんか何年も会ってないくせに)  罵倒したい気持ちを抑えて、奏太はいい息子を演じた。 「わかってる。いつもありがとう。母さん」 「あんたって、小遣いせびる時だけはしおらしいんだから」  呆れたようなセリフだが、なぜかその声は弾んで聞こえた。彼女はこの親子ごっこを楽しんでいるのだろう。  電話を切ると、一気に疲れが押し寄せてきて、ぐったりとソファに身を預けた。そして手元に残ったスマホを操作する。  発信記録の一番上には『喋るATM』という表記があった。奏太はその記録を消した。彼女と接触していることを誰かに知られないためだ。  離婚の原因は理代の不倫だ。父は決して口を割らなかったが、祖母に鎌をかけたら簡単に引っかかった。  理代は自分を捨てて出て行った。何年も音信不通にしておいて、多少の金を握らせて許されたと思っている。そんな彼女を奏太は軽蔑していた。 「……クソババア」  小さく呟いた後、奏太は気分を変えようとすっかり暗くなったリビングに明かりを点けた。

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