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28.母の夢

「お前は母親失格だ」  男の怒声で奏太は目を開けた。  子供の頃に住んでいた家の寝室で横になっている。 (これは、夢だ)  そう思ったが、奏太にはどうすることも出来なかった。まるで映画の観客のように物語を見守ることしかできない。  男の声は父親だ。こんなに怒った父親の声を聞いたのは後にも先にもこの時だけだ。その声を聞いた奏太は恐ろしさに心臓がぎゅっと縮んだ。  枕元の恐竜のぬいぐるみと目が合い、お守りがわりにそれを手に取った。  身を起こすと隣で寝ていたはずの母親の姿はない。川の字で並んでいる両側の布団はどちらも無人だ。奏太は空っぽの布団をまたいで、灯りの漏れるリビングの扉を開いた。 「奏太、起きたの」  食卓に座っていた母親と机越しに目が合った。そして手前に座っている父親をに対して責めるような視線を向けてから立ち上がる。自分はまずい時に起きたんだと直感で悟った。    母がこちらに来るのを阻むように父が椅子から立ち上がって、奏太と視線を合わせた。 「奏太、おばあちゃんのところに行こう」 「今から?」 「そうだ。お父さんと一緒に行こう」  おばあちゃんの家は車で何時間もかかる遠い場所にあった。正月と夏休みに行くのが恒例だ。明日も幼稚園があるのに、何かが変だと思った。  『お父さんと』というセリフが妙に強調されて奏太は嫌な予感がした。父の背後にいる母に声をかける。 「お母さんは? お母さんも一緒だよね?」  しかし、父も母も口をつぐんで俯いてしまい、返事がない。奏太は手にしていたぬいぐるみを抱きかかえ、控えめに呟いた。 「ぼく、お母さんと一緒がいい」 「そうちゃん、お母さんはあとから行くから」  そう言って、母も父の隣で腰をかがめる。母の顔はとても悲しそうで、それを隠すために無理して引きつった笑いを浮かべる。 「お父さんと先に行って待ってて。……ね?」  嫌だった。  だけど、その時、どうしても嫌と言えなかったのは、母の目に涙が溜まっていたからだ。奏太はそれをこぼしたくはなかった。 「うん、わかった……」  奏太は父親の手を引かれて車に乗り込んだ。チャイルドシートに身体を固定されて何時間も揺れるのは好きじゃない。いつもなら隣に母がいるが、それもない。  奏太は黙って窓から見える高速道路の電灯を目で追っていた。  奏太は田舎の祖母の家にしばらく預けられた。父は仕事で帰ってしまい、祖母と二人で暮らした。祖父を早くに亡くした祖母は孫を快く受け入れてくれた。  祖母の家の裏には大きな木があって、近所の子供が木登りをして遊んでいた。  奏太もそれに混じってその木に登った。  そこに上ると一本道の道路が遠くまで見渡せる。  奏太はそこに毎日登って、母親が来るのを待った。  お母さんはあとから行くから。  そう言った母の言葉を信じて待ち続けた。来る日も、来る日も。  しかし、母は一向に現れない。  ある日、奏太は堪らず祖母にぼやいた。   「お母さんはぼくのこと嫌いになったのかな」 「そうちゃんはなんにも悪くないよ。お母さんは悪いことをしたから、もうそうちゃんには会えないの」  台所からエプロンで手を拭きながらやってくる祖母の言葉には、なにか棘のようなものが含まれていた。  それが呼び水となって、奏太はふと、父の言葉を思い出した。 「お母さんは”母親失格”なの?」  その時の奏太は母親失格の意味なんて分からなかった。だが、強烈に脳裏に焼きついた言葉であった。  祖母はぎょっとした顔でこちらを見た。どこでそんな言葉を覚えたの。とでも思ったのだろう。  彼女はしばらく押し黙り、何度か口を開きかけては閉じてを繰り返したあと、小さく頷いた。 「……そうだね」 (そうなんだ)  祖母に肯定された事に、奏太はショックを受けた。あの時、父の怒りは正しかったのだと悟る。やはり、母は悪いことをしたんだという事実がショックでならなかった。  呆然とする奏太の手を皺の目立つ手で握られた。 「でもね、そうちゃん、これからはおばあちゃんが、そうちゃんのお母さんになるからね」 「そんなの無理だよ。お母さんは一人だもん」  奏太は震える声で反論し、涙を溢した。一度落ちた涙は止まることなく、奏太は大泣きして祖母を困らせた。 夢は、そこでようやく終わった。

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