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第2話

 目が覚めた。  身体を起こして、獅堂優依は目を瞬いた。  その夢を見るのは、初めてではなかった。むしろ近頃はよく見る。  それは、彼の記憶。昔の。おそらく前世と呼ばれるものの。  ただしこの世界ではなく、異世界のだった。  優依は立ち上がって部屋を出て、洗面所へ向かう。  鏡に映ったのは、茶色の髪に気の強そうな生意気な目をした少年。  ほどよく均整の取れた、綺麗な顔だった。 (クラリーチェには似てないよな……)  クラリーチェ・ファルクは、銀糸の髪と瞳が美しい少女だった。華奢な身体に愛らしい顔立ち。  優依とは似ても似つかない。  鏡の中の自分の顔の輪郭をなぞるように指を滑らせる。  クラリーチェは愛する男のために命を落とした。  しかし命を賭して救った男と、クラリーチェの間にはなにもなかった。  男が、彼女を知っていたかどうかすら怪しい。  クラリーチェは神殿に仕える巫女だ。愛した英雄は、儀式の一環として遠征の前と後に神殿を詣でる。  祝福を授けるのは巫女の仕事だ。  クラリーチェはそこで男と出会った。いや、見たと言った方が正確だろう。  心を奪われたクラリーチェが想うのは、やがて男のことだけになる。  そして彼女は、男の運命を知ってしまう。  優依はそれを、まるで映画を鑑賞するように毎回眺めている。  クラリーチェの感情、感覚、思惑、すべてのことを優依は知ることが出来た。すべてを追体験した。  だから優依は知っている。  クラリーチェがかの英雄、ラルス・ライルをどれだけ愛していたか。  だがクラリーチェの死後、かの男は世界を脅かす存在になった。英雄から、破壊者へと堕ちたのだ。  優依はクラリーチェの死後のことも、夢に見ていた。ただの傍観者として、世界が壊れ行く様子を眺めていた。  今の優依になら、わかる。  クラリーチェの行いは罪だ。購っても購いきれないほどの、大罪だ。  死神は魂を数でだけでしか管理しない。しかし魂には、存在には役割がある。  クラリーチェは、大綱に触れたのだ。 (なぁ、クラリーチェ。これは罰なのかな?)  鏡の中の、自分ではない顔を思い浮かべて問いかける。 (クラリーチェの願い通り、俺は男に生まれたけど……)  創世神の愛娘、慈愛の女神ミュフィアに願ったクラリーチェの最期の願い。  それは時空を越えてまで叶えられた。 「どこの世界の神様も意地が悪いな」  ただ側にいたいと言う願いは、相手が見つからぬ故に果たされることはなかった。 「優依くん! 早くしないと置いてくわよ!」  歳のわりに若作りな母親の声に急かされ、優依は荷物を持って玄関を出た。  この家とも、しばらくお別れ。  ちらりとだけ家を仰ぎ見て、優依は両親が待つ車まで急いだ。  両親は今日渡英する。  と言うより、帰るのだ。  優依は生まれこそ日本だが、五歳からずっとイギリスいた。ジュニアスクールも向こうだし、ハイスクールも向こうの予定だった。  しかしたまたま日本に戻っていた間、ふと何気なく日本の高校に行ってみようと思い立った。  思えば、夢でクラリーチェを追体験し始めたのもその頃からだろうか。  優依は明日から、全寮制の高校に通うことになる。  高校まで送ってもらい、優依は両親に別れを告げた。休み期間中は必ず帰ること、連絡は欠かさないこと。両親に約束させられ、優依は二人を見送った。  もともとジュニアスクールでも優依は寮にいた。不安はさほどない。  高校の厳めしい門をくぐり、呼び鈴を鳴らす。  優依を迎え入れたのは、まだ若い青年だった。 「わぁお、これまたえらい別嬪さんが来たなぁ」  長めの茶色の髪を大きく揺らしながら、彼は軽薄な雰囲気そのままに口を開いた。 「僕は守衛してる平山諒一。諒ちゃん呼んでくれる?  君のことは聞いとるよ、獅堂優依くん」  柔らかなイントネーションでの自己紹介は、何故か彼の軽薄さを薄めていた。  優依は差し出された諒一の手を握り、形式通り名乗る。 「ぼちぼち案内人が来るから、中入って待っててくれる?」  守衛の詰め所は周囲を木々が覆い隠し、中は六畳一間の簡易な作りをしていた。しかし中には監視カメラのモニターがずらりと並び、外観とは裏腹にセキュリティの高さを意識させる。  中に通された優依はざっと周囲を見渡し、諒一に勧められるまま腰を降ろした。  諒一がケトルから湯を注ぐと、小さな部屋にふわりと香ばしい香りが広がる。 (あ、いいお茶だなー)  ほどなくして優依の前に出された緑茶は、確かに上質の茶葉を使っているようだった。 「さ、どうぞ」  にっこりと笑って勧める諒一に従い、優依はお茶を一口啜る。  上質の茶葉の香りが鼻腔に広がり、ほっと肩から力が抜けた。  諒一はそんな優依の様子をじっと眺めていた。  それからふっと、笑った。 「自分危ないなぁ。初対面の相手が出したもん、そんな簡単に飲んだら、何があっても知らんで?」 「は?」  ニヤリといやらしく笑った諒一に顔を上げれば、彼は例えばな、と口を開く。 「そのお茶ん中に睡眠薬とか、催淫剤とか入ってたらどうするん?」  優依は両手で持った湯飲みに視線を落とし、柳眉を寄せた。 「入れるメリットは?」  優依が彼に対して初対面でどんな遺恨を残したと言うのか。 「自分、無自覚さんか? そんだけ別嬪さんやったら、ヤられてまうぞ?」  諒一の言葉で、優依はだいたいの事情を飲み込んだ。  優依も向こうでは全寮制のスクールにいた。そう言う話を全く聞かなかったと言えば嘘だ。  だが。 「ここ共学ですよね?」  全寮制ではあるが、共学の学校のはずである。健全な生徒なら、視線はおのずと異性に向く。 「うん、せやね。でもここ多いんよ、男も女も。だから獅堂くんは危ないよね。僕も獅堂くんは好みやし」  軽薄な雰囲気に妖艶さを纏うように諒一は笑った。しかし優依は煎れられたお茶を両手で抱えたまま、丁寧に一口啜って見せた。  ぎょっと諒一が目を見開く。 「で、俺に薬を盛るメリットは?」 「獅堂くんを好きに出来るやろ?」 「わざわさ薬盛るような犯罪するほど、諒ちゃんは短絡的じゃないように思うけど?」 「それだけ優依が僕の好みにストライクやったら?」 「あと数分で案内人に来るってわかってるのに?」 「もうすぐとは言ったけど、あと数分で来るとは限らんよ」 「五番のモニターにこっちに来る人が映ってた。場所から考えてあと五、六分くらいだろ?」 「……地理頭に入ってるんか?」 「通うことになる学校の地図くらい確認するだろ?」  だから本来なら、優依に案内人は必要ない。  笑みが消えた諒一の変わりに、優依が綺麗に笑みを浮かべる。 「自分、たいした洞察力やなぁ。モニターまで確認してるとは思わんかったわ」 「まぁ、癖で」  優依はクラリーチェを追体験する時、常に彼女の背後に立っている。クラリーチェの心情はずっと流れ込んでくるが、視線も思考も優依は自由になる。物珍しさも手伝って、周囲をキョロキョロと見回している。そこからクラリーチェが知らないことを優依が知ることもある。  夢の中の癖が、現実の世界でも出てしまっているのだ。 「でも、ありがとうございます」  優依はお茶を飲み干し、諒一に礼を言う。  下手をしたら相手を怯えさせてしまう少々乱暴な手ではあったが、状況把握には一番だ。  諒一は軽く目を見開いた後、楽しそうに笑った。  そこへタイミング良く、ノックが響いた。 「あぁ、お迎えやね。楽しかったよ、優依。また遊びにおいでな」  にこにこ笑って扉を開け、諒一は案内人を招き入れた。  姿を見せた案内人は、すらりとした長身にきりりと引き締まった体躯を制服の下に隠していた。やや幼さを残しながらも、ケレン味があり精悍で秀麗な造形を有してた。  ギリっと、優依のどこかが悲鳴を上げた。 「優依、こっち案内人、生徒会長で二年の弥勤比呂くん」  諒一の声が、どこか遠くで聞こえた。  意思の強そうな黒の目が、優依を真っ直ぐと射抜いた。 ―――あぁ、どこの世界の神様も、本当に意地が悪いな  もし許されるならば。  次に生まれる時には、共に戦える仲間でありたい。  ただ側に―――  クラリーチェの真摯な願い。  ただ優依は、出逢いたくなかった。  出逢ってしまったら、自分がどうなるかわからない。  紹介された男は優依を見て一瞬黒い瞳をすがめるように細めた。探るような視線に優依は柳眉を寄せ、気付かれないよう拳をきつく握りしめる。諒一に紹介されたので仕方がなく、優依は形式的に頭を下げる。  クラリーチェが、内側から騒いでいた。  目の前の男は、彼女が命を賭してまで愛した男だ。  クラリーチェは当然ながら、自身の死後のことなど知らない。だからクラリーチェが抱く感情は、慈しみしかない。  溢れ出る感情に、優依は息苦しくなる。  比呂は自身も名乗った後手を差し出したが、優依はそれを握ることは出来なかった。  諒一に一礼して外に出る。  わずか数歩先を行く男の存在が、心を騒がせる。  比呂は優依の歩調に合わせながら、道すがらこの高校について簡潔に説明した。先に見える校舎や場所を説明する声は明朗で耳に障りが良い。  ふと、比呂が歩を止めて優依を振り返った。  鋭い黒の瞳が、何かを探るように動く。 「……どこかで、会ったことないか?」  ぐっと息が詰まった。  愛しい愛しいと、クラリーチェが叫んでいる。  胸が苦しくて、思わず優依の顔が歪んだ。 「獅堂?  大丈夫か?」  気遣わしげにかけられた声にはっとし、優依は一歩下がった。 「『俺』は、会ったことないですよ」  嘘ではない。優依は、彼に会ったことはない。  苦々しい表情を刻んだためか、比呂は訝しげに眉をひそめて優依に手を伸ばした。  安否を問うような、何気ない動作だった。  しかし優依はビクリと反応した。  クラリーチェが愛した英雄の魂を持つ男。  彼女が邂逅を心から願った男。  だが、優依は会いたくなかったのだ。  会ってしまったら、自分がどうなるかわからないから。  伸びた手を、優依は容赦なく払いのけた。  腹の底から、沸き上がってくる感情がある。 「触んな、クソ勇者が……!」  吐き捨てるように、言葉を叩き付けた。  出逢ってしまったら、この真っ赤に染まって煮えたぎる怒りを抑えられる自信がない。  優依が手を払いのけたことより、吐き出した言葉に比呂は反応した。  鋭い黒の目が、ぱっと輝いた。 「やっぱり!  クラリー……ぐっ!」  破顔して駆け寄って来た男の腹を、優依は容赦なく殴りつけた。 「その名前を呼ぶんじゃねぇ……!」  綺麗に腹に決まった拳に、比呂が小さく呻いた。  クラリーチェとは違い、優依はラルス・ライルが嫌いだ。クラリーチェが助けたその命で、世界を壊そうとした愚か者。  そんな男の口から、クラリーチェの名前を出されるのは不愉快極まりない。 「てめぇ、なんでいるんだよ……」  年上だろうが何だろうが関係なく、優依は吐き捨てる呟く。  比呂は殴られた腹を押さえ、それでも嬉しそうに笑顔を浮かべていた。 「俺は会いたかった、ずっと」  惚れ惚れするような笑顔で比呂は優依を見つめ、言葉を紡ぐ。  しかし対する優依の瞳はどこまでも醒めていた。 「どの面下げてクラリーチェに会いたいなんて言うつもりだよ……!」  クラリーチェは知らない。ラルスが彼女の死後世界に何をしたのか。  だからラルスに対する愛情がクラリーチェの中から薄れることはない。  でも優依は知っている。優依には、その行いがどうしても許せない。 「お前聞いただろう?  クラリーチェがお前の替わりに死んだって!  クラリーチェがお前に望んだことだって!  全部聞いただろう!?  そんなに難しいことだったか!?  世界を壊すほどクラリーチェがお前に望んだことは難しいことだったかよ!?」  胸ぐらを掴んで相手を睨み付ける。  ずっと、許せなかった。  クラリーチェがラルスに望んだことは、ただ一つだけ。 『幸せに。これからの道が、勇者様にとって恙無く幸せでありますように』 「……ただ、それだけだろ……!」  胸ぐらを掴んだ拳が、怒りで震えて白くなっていく。  唇を噛み締めて俯いた優依を、比呂は息苦しくなったまま悲しく見つめた。 「俺は……」  比呂が口を開くが、優依はその言葉から逃れるように掴んでいた胸ぐらを乱暴に振り払った。  急激な動きに、比呂の身体が数歩たたらを踏む。  優依は男を一瞥もせず、一人で寮へと向かって歩き出す。  気分は最悪だった。  クラリーチェは純粋にその邂逅を喜び、胸には暖かな灯りをともしている。  その灯りが明るければ明るいほど、暖かければ暖かいほど、優依の心は黒く濁っていく。  早足で正面玄関に造られた緑を抜け、校舎を越える。やがて見えて来た寮の周辺には、生徒たちがちらほらと見えた。 「待て! クラっ……優依!  話を聞いてくれ!」  優依の言葉が衝撃でしばらく呆然としたためか、比呂は走って来てようやく優依に追い付いた。  全力疾走したせいか、肩で大きく息をしている。  しかし優依は耳を貸さず、その大声の呼び声に足を止めることもしなかった。 「優依!」  追い付いた比呂が優依を無理やり振り向かせ、真剣な目で叫んだ。 「俺はお前を愛してた!」  真っ直ぐと反らされずに見つめられて叫ばれた告白に、優依の頭にかっと血が上った。 「ふざけるな……!!」  比呂の手を払いのけた優依の声は、地を這うかのように低いものだった。  綺麗な顔は憤りのために赤くなり、瞳にははっきりとした憎悪が浮かび上がっていた。  クラリーチェはラルス・ライルとまともに会話したことすらない。彼が神殿を訪れた時にしか会わないのだから当然だ。  かの英雄が、数多くいる巫女の中からクラリーチェ一人を認識していた可能性など、皆無に等しい。  咄嗟に手が出そうになるのを抑え、優依は振り返らずに寮へと走った。  後には呆然とした男と、ざわざわとする観衆だけが残された。

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