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第4話

 優依が不承不承ながら了承すると、比呂は旭と柊平に礼を言ってから優依を連れ出した。  あまり大声で触れていい話しでもないので、自然と選ぶ場所は人気がないところになる。 「……逃げないから、手放せ」  優依は比呂に手首を取られ歩いている。了承したのは優依だし、逃げる気があるならとっくに振り払って逃げている。  素直に放すように言うと、彼は逡巡して優依の手を放した。  触れていた手首の熱が、突然失われて寒々しく感じられた。さりげに手首をもう片方の手で覆い、キリっと奥歯を噛み締める。  この感情を、知っている。  じわじわと胸に広がっていく暖かな熱。  クラリーチェが、歓喜に震えているのだ。  愛しい愛しい男を前に、甘く痺れるような感覚が手首から伝わっていく。 胸を焦がす想いに、呼気が苦しい。  連れられたのは、第二体育館裏の倉庫の近くだった。昼休み、一番遠くにあるこの場所に好んで来る輩はそうそういない。  比呂はそこで足を止め、優依を振り返る。  真っ直ぐと見つめる瞳には、確かに真摯な決意が見られた。  問い詰めるべきは優依であるのに、何故かその視線にはこちらが後ろめたさを覚える。  耐えきれなくてなってそっと視線を外す直前、比呂が口を開いた。 「俺は以前からクラっ……、お前のことを知っていた」  落ちた声は、哀愁と思慕に満ちていた。  初めて見たのは、儀式の為に行くことを余儀なくされた出立当日だった。  世界の理を歪めさせた根元を絶ち、その歪みを正す為の旅立ちの日。  ラルスは最初、それを拒否した。世界を歪めたものの正体はわかり、それから一刻でも早く世界を正さねばならない。神殿は確かにそれの正体を暴きはしたが、祈りがどうにもならないことをラルスは知っていた。  役にたたない祈りの為に神殿を詣でるくらいなら、一時でも早く理を正したい。  それが正直な心情だった。  だがそれは許されることなく、ラルスは半ば無理矢理に神殿に連れていかれた。  祈りを捧げる為に聖堂に集められた巫女たち。  その中に、彼女はいた。  その時の激情を、ラルスはどう表現すればいいかわからない。  ただ周りからすべての音が消え、視界から彼女以外のすべてが見えなくなった。  創世神レグルスを模したステンドグラスから降り注ぐ日の光を受けて、彼女の見事な銀糸の髪が輝いていた。白くすべやかな肌に一点注したように紅い唇が何事かを紡ぎ、伏せられた睫毛が優美に影を落としている。  息を飲むほどに、その光景が美しいと思った。  やがて祈りを終えた彼女が顔を上げると、星を浮かべたような瞳が現れた。吸い込まれるほどに美しく、透明な色だった。  以降ラルスは、神殿に詣でるのが楽しみになった。  創世神レグルスを祀るレオ・コルニウス神殿は、世界でも唯一の特別な神殿であった。  いくらラルスが勇者として世界を正そうとも、容易に足を踏み入れていい場所ではなかった。  そこは世界を救う旅に出る前と後にだけ出入りを許され、ラルスは遠征を精力的に取り入れた。  ただ彼女の姿を視界に入れたかった。  話すことも、触れることさえ許されないが、遠征中ラルスを支えたのは彼女の神々しいまでに美しい姿だった。 「俺はお前をもうずっと前から知ってた。ずっと、愛してた」  どれほどの時を超えてか、時空さえ飛び越えてようやく吐露出来た想いに、比呂の表情は穏やかに緩んでいた。  姿も性別さえも違う相手を前に、逸らされることのない瞳が真っ直ぐに愛を囁く。  それは、ラルス・ライルの隠されることのない本心だった。  優依はそこに確かな想いを見て取った。  比呂が向ける眼差しに、クラリーチェと同じ色を見つけたのだ。  鏡に映されたクラリーチェの澄んだ瞳に浮かぶ、かの男を思う恋慕の情。熱に浮かされたようで、それでいて激しい感情の揺らぎを見せる。  ラルス・ライルは、確かにクラリーチェを愛していたのだ。  果たされることがなかった想いの吐露に、トクトクと胸が早鐘を打つ。  かの英雄が想いを告げたのならば、クラリーチェも告げねばならない。  歓喜にうち震える内側を落ち着かせるように、優依はきつく拳を握りしめる。  かつて深緑の瞳を持った目の前の人は、色は違えど今も同じ瞳の強さを宿している。 「クラリーチェも、ラルス・ライルを愛してたよ。それは、間違いじゃない」  かすかに震えた声は、それでも相手にしっかりと届いたようだ。  かの人の顔が、幸せそに微笑んだ。  優依のどこかが、ぎゅうっと音をたてて締まった。  蕩けるような笑顔を浮かべた男が、想いを通じた相手に向けて手を伸ばす。  かの男を愛しいと叫ぶクラリーチェがいる。邂逅を果たして歓喜し、想いが通じて泣くクラリーチェがいる。  だが。  自然に頬に触れようとした比呂の手を、だがしかし優依はふいっと拒んだ。 「でも『俺』は、ラルス・ライルが嫌いだ」  いつか見た、おそらくは夢で見たラルスの姿が比呂に重なって見えた。ラルスの印象的な深緑の瞳が、驚愕で大きく見開かれる。  頬を紅潮させて喜んでいた表情が、みるみる曇ってくい。  想いが通じたばかりの相手に、一拍後には手のひらを反されたのだから、その反応は当然かもしれない。  驚き見つめる比呂の様子が意外にも可愛らしくて、優依は小さく口許を緩ませながら言葉を続ける。 「あんたはどうか知らないけど、俺は自分がクラリーチェだと思ったことは、そんなにない」  優依の位置は、いつだってクラリーチェの背後だ。クラリーチェのすべてを追体験出来るが、そこに『優依』の意思はある。まして優依とクラリーチェでは性別も違う。彼女側ではあるが、優依が完全にクラリーチェと同一になるのは極めて難しい。  だからラルス・ライルを嫌いだと言う感情は、優依のものだ。  優依とクラリーチェは=ではなく、≒で結ばれている。  そう話すと、比呂の端正な顔が一瞬呆気に取られたような表情を浮かべた。しかし次の瞬間、彼は小さく噴き出した。 「くくっ……一度も、じゃないんだな……!」  一度もないと、跳ね退けることも優依には出来ただろう。言い切っておけば逃げ道はあっただろうに、それをしなかった。  バカ正直さが面白くて、比呂のツボをついた。  秀麗な顔が屈託なく声を上げて笑うのを目にして、優依は知らずに肩から力を抜いた。  目の前の今の彼の顔が、ラルス・ライルではない弥勒比呂の素顔なのだろう。  初めて遭って以降、彼はクラリーチェの名前を決して口にしない。それは優依が、呼ぶなと怒鳴ったからだ。間違いそうになる度に、彼はきちんと呼び直す。  本当は、気付いている。目の前の彼は、かの英雄ではない。優依がクラリーチェでないように。  だからラルスに対する怒りをぶつけるのは、間違っている。  弥勒比呂は、優依にとっては心地良い部類に入る人だ。 「……いつまで笑ってんだよ……」  快活な笑い声が耳に障りが良くて、ずっと聞いていたくなる。  捕らわれそうになった思考に気付かないふりをして、不機嫌に比呂に凄む。  比呂は悪い悪いと詫びながらも、口許はしまりなく緩んでいた。 「じゃぁ、俺は?  優依は俺は嫌い?」  ひとしきり笑った後で、比呂はまだ笑いの残る声で優依を見る。  ラルス・ライルが嫌いだと言った優依。クラリーチェとは違う意見を持つ優依は、弥勒比呂も嫌いなのか。  問いかけに、優依は瞠目した。それから、にやりと笑う。 「さぁ?  俺はあんたのこと知らないし。好きか嫌いかって言うより、今はわりとどうでもいい」  出逢って二日目。まともに話すのはこれが初めてと言ってもいいだろう。短時間で相手の人となりを見極めるのは困難なことだ。  ましてその相手の中に嫌いな奴を見つければ、なおさら困難だろう。  例え、自分にとって心地良い人物だろうと思ったとしても。  投げやりに言葉を告げると、比呂の顔が一瞬苦しそうに歪んだ。瞬きの間だったが、優依はそれを見逃さなかった。  『優依』に言われて傷付いたのだと思うと、胸に小さな痛みを感じた。 「じゃぁ、俺を知れよ、優依」  だから次に出てきた比呂の台詞に、一瞬反応が遅れた。  問い返すように一つ瞬きすると、比呂が柔らかく微笑んだ。  優依のどこかが、小さな音をたてて鳴った。 「べ、つに、あんたのこと……」 「比呂」 「は?」  知る必要はないだろうと言おうとして、上から比呂に被せられて思わずぽかんとする。  比呂は隙が多くなった優依の腕を取り引き寄せ、楽しそうに笑う。 「俺の名前。比呂。言ってみ?」  無邪気とも思える笑顔で名前を繰り返され、優依は呆気に取られながら思わずそれに従う。 「比呂……」  音に乗せると、甘い疼きが全身に広がったような錯覚を覚えた。クラリーチェがラルスを呼ぶ甘い痺れにも似ていて、優依は知らずに顔をしかめる。  嬉しそうに優依を映す男は、ラルス・ライルの記憶と魂を有す者。クラリーチェが逢いたくて逢いたくて、焦がれ続けた男。  そして優依が、逢いたくないと心から願った男。  知らずに握った拳をゆっくりと解いて、取られた腕をそのままに優依は比呂の胸ぐらをおもむろに掴んだ。  急な暴挙に比呂の目が大きく見開かれるが、腕が優依から離れることはなかった。 「一つだけ答えろ。なんで世界を壊した」  ラルス・ライルがどんな人物であったのか、クラリーチェはもちろん優依も知らない。だが今知る限りの弥勒比呂は、世界を壊すような愚か者には思えない。  彼が世界を壊そうとした理由を優依は知らない。ただ世界が壊れる様をずっと見てきた。  鋭さを増した優依の質問に、比呂が凍り付いた。ギクリと身体を強張らせる理由が、彼にはある。  強い瞳で見つめると、比呂はゆっくりと視線を外した。  今までどんなに優依が責めようと殴ろうと、決して逸らされなかった視線が初めて逸らされた。  視線を下に投げたまま、比呂は無感情に呟いた。 「……優依には関係ないことだ」  かっと頭に血が上り、優依は掴んでいた胸ぐらを投げ捨てた。 「そうかよ……!」  手が出そうになるのを必死でこらえ、優依が吐き捨てる。  彼の命は、クラリーチェがその命で購った。クラリーチェに生かされたその命で、彼は世界に牙を剥いたのだ。  それを関係ないと切り捨てるのならば、もういい。  優依はその理由だけを知りたかった。知らされないのならば、この男に用はない。関わる必要すらないのだ。  振り返ることすらせず、優依はその場を後にした。  怒りを隠そうともせず、優依は早足に体育館裏を抜け出した。ガツガツと歩く優依の形相は怒りで染まり、美貌の転校生の風体は全く残っていたなかった。しかし幸か不幸か、それを目にして怯える生徒も周りにはいなかった。  遇わなければ良かった。クラリーチェがどれだけ希求していたとしても。何も知らずに、このままあの英雄に対する嫌悪だけを育てていれば良かった。  出逢ってしまったら、聞かずにはいられない。  何故世界を壊そうとしたのか。  優依は夢にも思っていなかったのだ。  優依のその問いかけに、答がないなどと。  怒りに耐えるように、ギリリっと奥歯を噛み締める。行き場のない怒りを押さえつけるように、震える拳を握りしめる。 ―――…………罪だよ、クラリーチェ  不意に、ズキンっと頭が刺したように傷んだ。 「っ……!」  鋭い痛みに歩が止まり、こめかみ辺りを押さえる。痛みが和らぐのを待ってから、優依は周囲を見回した。 (……今……)  何かが響いた。  閃きのように頭を刺した何か。鋭い痛みが優依を叱責するようで、不快感に綺麗に整った顔が歪んでいく。 「獅堂優依くん、少しいいかな?」  不快感に息を吐き再び歩き出そうとした矢先、背後からその声は優依にかけられた。  声からあの男ではないとわかったが、不信感に顔をしかめながら優依は振り返って瞠目した。 (うぉ、男前……)  すらりとした長身に、均整の取れ顔立ち。甘やかな顔付きは少年の儚さを脱却しながらも、雄々しさと繊細さ持ち合わせていた。  幼さとケレン味を持つ比呂が個性的な男前ならば、目の前の彼は正統派の男前だろう。  思わず固まった優依に、彼はにこりと人懐きする笑みを浮かべた。  爽やかさと甘さを含む笑顔に、優依の口許が無意識にひきつった。 「初めまして、獅堂優依くん。生徒会広報、二年の門倉充樹です。インタビューさせてもらってもいい?」  小首を傾げた門倉充樹に、優依は考えるより早く言葉を吐いた。 「お断りします」 「え、即答?」  おかしそうに噴き出した充樹に、優依は醒めた視線を送る。  優依が一番関わりたくない機関の名称だ。次から次へと、この高校は優依を憤慨させるのが上手すぎる。 「お話しすることはありません。お引き取りを」 「でもみんな知りたがってるんだよね。獅堂くんとうちの会長な関係。広報として知っとくのも仕事のうちかと思ってね」  笑う男前は意地悪く笑ってもなお男前だったが、優依はその言葉で彼に対する『敬意』を取り払った。  すっと、優依の顔から表情が消えた。 「昨日着いたばかりの、右も左もわからねぇ転校生に迷惑かけるのが生徒会とやらの仕事か?  転校して来て二日で晒し者になった『一般生徒』を追いかけ回して、さらに晒し者にするのが広報の仕事だと思ってんなら教えてやるよ。広報は生徒会を管理するのが仕事だろ。勝手に手綱放して人に迷惑かけてんじゃねぇよ」  淡々とした口調だったが、その声には冷ややかな侮蔑と確かな憤怒が含まれていた。  笑顔を浮かべたまま、充樹の表情が固まる。  表情を刻まない、ただ綺麗なだけの顔は言葉の乱暴さと相まって恐ろしく感じる。  充樹は一瞬気圧されたように固まったが、それで引き下がるほど素直な性格はしていなかった。 「でも関係を明言しない限り、周りは煩いままだよ?  今ここではっきりしといた方がいいんじゃない?」  ずっと騒がれるより、一時の人として話題に上がるほうがまだマシだろうと、充樹の目が笑う。  優依は内心大きく舌打ちしながらも、表情を崩さず相手を見る。  関係など、初めからないのだ。少なくとも、優依と比呂の間には何もない。初対面は昨日なのだ。あえてと言うならば、先輩と後輩の関係くらい。  関係も関わりも、こちら側には必要ないのだ。  あれは、クラリーチェが救った命で世界を壊そうとした堕ちた英雄。  世界からあれほど必要とされていたのに。  人々からあれほど羨望と尊敬を集めていたのに。  その全てを振り払ったのだ。  無意識に握った拳が力を増して白くなっていく。 「……関係なんて、初めからない……」  吐き出された言葉は、地を這うかのように低いものだった。  あまりの低さと鋭さに、充樹の瞳が不安気に揺れた。 「……あんな裏切者……!」  小さく、吐息のように漏れた言葉は、血を吐くかのように悲痛な声だった。  翌日号外新聞の紙面を飾ったのは、『生徒会長の浮気発覚! 裏切られた転校生!?』と言う、実にくだらない文字だった。

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