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第6話
絶叫して気を失った優依を見下ろし、比呂は早鐘を打つ心臓を落ち着けるように深く息を吐き出した。
突如頭を抱えて蹲った優依の身体を抱き止めたまでは良かったが、比呂にはその他にしてやれることがなかった。何がどんな理由があって苦しみ出したのかわからなかったが、綺麗な顔をこれ以上ないくらい歪めた優依を見るのは辛かった。
比呂はかつての英雄ラルス・ライルとの間に齟齬はない。優依はクラリーチェとの間に距離を見ているようだが、比呂は驚くほどすんなりとラルスの記憶を受け入れていた。
だから優依を見た時、彼がクラリーチェだと確信を持てた時、歓喜に咽ぶかと思った。らしくもなく、創世神レグルスを始め、女神ミュフィア、この世界の神にさえ感謝したくらいだ。
だが優依は、比呂を火のついたような激しい瞳で射たのだ。烈火のごとく吐き出された怒りに、比呂は口をつぐんだ。
かつての英雄ラルス・ライルが世界を手にかけた理由。
ラルスとの間に齟齬はない比呂は、確かにそれを知っている。知っているが。
「……お前には、言えない」
痛みが引いたのか、気を失う優依の表情は穏やかだ。冷や汗で張り付いた額の髪を払いのけ、青白く色を失った頬に手を滑らす。
クラリーチェとは、似ていない容姿。均整の取れた秀麗な顔付きではあるが、やはり線は女のように細くはない。クラリーチェは線が細く、少しでも力を込めたら壊れてしまいそうなほど華奢だった。
優依の体格は、比呂とさして差がない。比呂のほうが若干上背があり体格が良い、というくらいだ。
比呂は優依をなんとか一人で背負い、裏道を通って帰る。
背中にずっしりと乗る重さが、今は異様に嬉しかった。頬をくすぐる柔らかな髪質や、首筋に触れる確かな呼気。熱を失わない、その身体。
触れて嬉しいと心が震えるのは、この体温が希求した人の魂を持つからだろうか。
優依を見ると、ほっと肩から力が抜ける。目が合うと、心臓が落ち着かなく騒ぎ出す。側にいると、触れたくて衝動を抑える。
この衝動がどこから来ているものなのか、まだわからなかった。
優依を背負ったまま、比呂は人気のない場所を歩いて遠回りを重ねた。生徒会長弥勒比呂はただでさえ目立つ。その上今はいらぬ号外騒ぎに好奇の視線が集まりすぎている。時の人である優依を背負っているとなれば、さらに悪目立ちするだろう。
優依に迷惑をかけるのは、本意ではないのだ。
ただ比呂が彼に会って話す衝動を抑えられない。会って話して、触れたいとずっと思っていた人だから。
「あれ、弥勒くん? 何してるん?」
目立たないだろうと、正門前の緑に入ったところで比呂は第三者に見つかった。
柔らかなイントネーションと軽薄にさえ響く声に、無意識に比呂の眉間に皺が寄った。
近付き来た男は、比呂とその背負うものを見て目を瞬いた。
「優依? どないしたん?」
意識を失っているのは一目でわかったのだろう。うっすらと目をすがめる表情に緊張が走る。
会長の観衆の中での告白劇は、彼、平山諒一も目撃者の一人である。よもや良識ある生徒会長が転校生を襲うなどどにわかにも信じがたいが、あの告白劇はなかなかに悲壮感漂っていた。
表情を厳しくした諒一に彼の誤解を見て取り、比呂は嫌そうに首を振った。簡潔に経緯を説明して、その誤解を解く。
諒一はあからさまにほっと肩から力を抜いて、比呂に嫌な顔をさせた。
「可哀想に……」
比呂の背でくったりと色を失っている優依を見て諒一は呟き、その白くなった頬にそっと手を伸ばす。
「触んな」
しかし諒一の手が優依の頬に触れることなく、比呂が一歩遠ざかってぴしゃりと拒否する。
滑やかな頬が遠ざかって諒一はむっと顔をしかめる。
純粋な心配になんていう態度だろうか。
「君のやないやろ? 僕が連れてくから授業に出たら? 会長さん」
悪戯を思い付いた嫌らしい笑みを浮かべた諒一に、比呂はさらに一歩下がって相手を睨んだ。
「諒一さんが連れてくほうが心配なんだけど」
「え、僕君と違って優依にいかがわしいことなんてしてへんよ?」
「俺もしてねぇよ!」
いかがわしいレベルで言えば、比呂の告白劇より諒一の悪戯のほうが断然質が悪い。
即答で叫ぶと、諒一は質の悪い笑みを浮かべたまま比呂の頭を叩く。
咄嗟に伸びてきた手に、両手が塞がった比呂は甘んじて受けることしか出来なかった。
「これ以上優依の心労増やしたらあかんよ?」
きっと睨むと、軽薄ながら柔らかな笑みと共に戒められた。
意味がわからなくて、比呂の顔がかわりやすくしかめられる。
「ただでさえ、気ぃ張ってるみたいやからなぁ……」
白い優依の顔を見ながら、諒一が呟く。
周りを観察するとことを、癖だと言った。意識の有無関わらず、それをする者は多分にいる。だが優依は、あの短時間で相手から逃げられるルートを作ることに戸惑わなかった。相対している者に常に警戒心を抱き続けていた。
「……癖になるほど、周りを警戒せなあかん状況に晒されるんは、悲しいことやね」
悲しい色を浮かべて、諒一は優依の綺麗な顔を見つめる。
「優依の攻撃力の高さは、守るものがなにもない人間の強さに似とる」
ぽつりと落ちた諒一の言葉を、比呂は優依の身体越しに聞いた。
優依が時折仕掛ける攻撃は、窮鼠が猫を噛むそれによく似ている。形振り構っていられないような必死さを思わせる。ただ闇雲に暴れまわって反撃に転じられるのは、後ろに守るものがないからだ。それでどんなに傷を負ったとしても、奪われるものは初めから存在しない。
あるいは自身さえも、守る対象には含まれていないのだ。
何も持たない者は、強い。失うものを知らないから、折れることも知らない。
ただ、持たざる者の持つ強さというものは、ひどく脆い。いつも瀬戸際に立たされ、自身をそれ以上強くするものがないからだ。
背中に優依の暖かな体温ん感じながら、比呂は苦しそうに奥歯を噛み締めた。
「気付いたか?」
うっすらと目を開けた優依に気付き、比呂は横たわる彼を覗き込んだ。
優美に影を作る睫毛に彩られた瞼が上がると、焦点を合わさないぼんやりとした双眸が現れた。
緩く首を傾け、比呂を視界に映す。
潤んでいるような瞳の色に、比呂の目が柔らかく微笑む。
「よくあることなのか?」
色を取り戻しつつある柔らかな頬に手を滑らせ、問いかける。
優依はぼんやりとした光を浮かべたまま、比呂の声に小さく首を振ったように見えた。
艶やかな唇が、喘ぐように何かを紡ぐ。
「……夢を、見てた……」
寝起きのような掠れた声に、頬を撫でていた比呂の手が止まる。額に張り付いた髪を優しい仕草で払いのけ、比呂は優依を見て先を続けるよう促した。
「降誕祭の……」
「あぁ、奉納舞のか」
優依の小さな声に、覚えがあると比呂は頷く。
創世神レグルスの降誕を祝う祭事で、毎年レオ・コルニウス神殿の巫女が奉納舞を披露する。数多いる巫女の中から舞手に選ばれるのは毎年一人であり、それは言うまでもなく大変名誉なことだった。
ラルスはクラリーチェが舞った年のことをよく覚えている。
しなやかな身体で力強くたおやかに、時に淫靡にさえ見える、他を圧倒する舞だった。
あの時以上に、彼女が輝いて美しく見えた時はない。
クラリーチェ・ファルクと言えば、騎士の中でも有名な巫女だった。世界の頂きに座すレオ・コルニウス神殿の秘蔵の巫女。かの創世神レグルスの庇護を受けるとされ、その能力は他に類を見ないと言う。彼女の美しさと神秘さ、高潔さに、レグルス神の愛娘・女神ミュフィアの化身ではないかとさえ囁かれた。
その彼女が舞った降誕祭の奉納舞は、後に語り継がれるほどだった。
遠い過去を思い出す比呂の目に、ラルスと同じようなクラリーチェを想う光が宿る。
優依はぼんやりとその光を映しながら、口を開く。
「……クラリーチェは、孤児で……、子供の頃……神殿の前で拾われたんだ……」
突然語りだした身の上話しに比呂は軽く瞠目し、優依の髪をすいていた手を止める。
焦点の合わない瞳は、今目の前に誰がいるのかさえわかっていないのかもしれない。
「初めて奉納舞を見た時……こんなにも、美しい世界があることに、ただ感動した……どうしてもあの舞台に立ってみたくて、必死に練習してた……でも、……クラリーチェは、『特別』だったから……、周りはそんなに優しくなくて……どんなに手を伸ばしても、なかなか届かなかった……」
慈愛の女神ミュフィアの化身とさえ囁かれた、孤児のクラリーチェ。数多いる巫女たちが、それに面白くないと思うのは当然の感情だった。
神殿内でのクラリーチェへの風当たりは強く、彼女の側には親い友人などはいなかった。
だが数年後、クラリーチェの努力は実を結ぶ。
「クラリーチェが孤児でも真っ直ぐいられたのは、舞手に選ばれたいって……強い目標が、あったからだ……ずっと、ずっと、願ってた…………祭司様に呼ばれて、舞手に選ばれた時、すごく嬉しかった……! それだけで、本当に、幸せだった……!」
優依の声が、溢れ出る感情を抑えるように掠れた。
「だから……それ以上の幸せがあるなんて、思ってもみなかった……」
掠れた声に混じって響く嗚咽を、堪えるように優依が唇を噛み締める。うっすらと瞳に張るのは涙の膜のようで、比呂は慰めるように目尻に唇を落とした。
クラリーチェが生きる希望とさえした、奉納舞の舞手。それ以上の幸せを、彼女はかの英雄ラルス・ライルを愛して知った。
世界を彩り、より鮮やかにクラリーチェに触れただろう。
それに咽び泣くのは、何故だろうか。涙を溢さまいと唇を噛み締めるのは、誰だろうか。
半分意識を底に埋めたままの優依にそれを問いかけるのは、今の比呂にはひどく恐ろしいことだった。
ただ黙して、優依の髪を撫でる。
小さく、優依の嗚咽が漏れた。
「……っ幸せ……って……でも……クラリーチェが……っ泣いて……るんだ……! 一人で……ずっと泣いてる……! 俺が……、俺しか、クラリーチェをわかってやれない、……俺しか、クラリーチェを、助けてやれない、……のに……ずっと泣いてる……!」
「優依、優依!」
クラリーチェと優依の意識が混濁していた。それはまるで魘されるようで、比呂は必死になって優依の名前を呼び続けた。
言葉は嗚咽に飲まれて喉に貼り付き、優依の目からは止めどなく暖かい涙が溢れ出た。
「優依、大丈夫だから。俺が側にいるから、大丈夫、だから、今は眠れ」
混濁して鈍色に光る優依の瞳に唇を寄せ、両手で涙を拭い取りながら比呂は囁く。
比呂の囁きに優依の瞼が一度上がる。睫毛に玉を結んだ涙が、滑り落ちて比呂の手で砕け散った。涙を舐め取って、目を閉じさせるように瞼に唇を落とす。
「今は何も考えずに眠れ。お前が泣くと、俺が痛い……」
柔らかな質感の髪を撫でるようにすくと、優依の身体から力が抜けた。
親指の腹で涙の跡を拭い、祈るように囁く。
「おやすみ、優依。よい夢を」
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