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第7話

―――無知は罪じゃない、知ろうとしないことが罪なんだ ―――でも、知らないふりをするのはもっと罪だよ、クラリーチェ  意識が浮上した。何度か瞬きして、ゆっくりと身体を起こした。  泣いた後のように頬が突っ張って、瞼が腫れぼったく感じられた。ずんと遠くの方にある頭の痛みに優依は顔をしかめ、周囲を見回す。  薄暗い室内は遮光カーテンが引かれておりぼんやりとしているが、暗さに慣れた優依に不都合はなかった。極端に物が少なく、部屋にはベッドと本棚、備え付けのクローゼットしかなかった。  ベッドを抜け出し、状況を整理しようと頭を働かせる。  鈍い頭を叱咤するように記憶を辿り、優依は行き着いた思考に気が抜けたように息を吐いた。  比呂と一緒にいる時に倒れたのだとしたら、ここは彼の部屋だろうか。保健室にしては消毒臭くなく生活感がありすぎる。そして部屋の造りが、寮の部屋と似通っている。  寝室を出て、射し込んできた光に優依は反射的に目を閉じた。  扉の開閉音に気付いた家主が、顔を出して破顔した。 「気付いたか?  気分は?」  すっと近付いた比呂の手が、当たり前のように優依の頤を捉えた。吐息が触れるような近い位置で覗き込まれ、優依が思わず目を見開く。でもこれほど近くで彼の顔を見るのは初めてではない気がして、優依は瞬きもせず比呂のよく出来た顔を凝視する。 「あぁ、顔色は戻ったな」  ひどい色だったと笑う比呂の顔は、ほっと力が抜けていた。 「俺、どうしたんだ……?」  記憶が曖昧で、優依は軽く頭を振る。 「覚えてないか?  急に頭を押さえて倒れたんだ。よくあることじゃないんだろ?」  まだ意識が完全に覚醒しないのか、ぼんやりとする優依に優しく話しかける。  よくあることではないと頷く優依に、先の一度目覚めた記憶がないことを比呂は確信する。 「保健室だと目立つからな。ここは俺の部屋だ。俺一人だから好きなだけ休んでろ」  気遣うように触れる比呂の手は優しくて、何故か優依は心がざわめくのを感じた。出会った時から彼は真っ直ぐと優依を見るが、何故か今彼を直視することが出来ない。罪悪感に似た何かを覚えるようで、優依の視線はふらふらと床に落ちた。 「あぁ、ありがとう……運ばせて悪かったな。迷惑をかけた」  視線を落としたまま礼を述べると、ふっと比呂が笑った。  優依の手を引いてカウチに座らせ、水を手渡した。  ほどよく冷えた水に一口口を付けると、途端に喉の渇きを覚えて一気に流し込んだ。冷たい水が喉を通る感覚が気持ち良い。 「さすがに驚いたが、迷惑はかけられてねぇよ」  優依の隣に腰を下ろした比呂が、優依から空になったグラスを取り上げる。グラスで冷えた指先に比呂の体温持つ手が触れた。 「……一瞬、前に傷付けられたことを思い出した」  指先を握った比呂の言葉に、優依が柳眉をひそめた。 「前?」 「あぁ……クラ、彼女が……」 「……もういいよ、好きに呼べよ」  律儀に訂正する比呂に呆れて許可を出すと、彼の目が嬉しそうに細められる。 「俺が五回目の凱旋した時、クラリーチェが襲われたことがあっただろう?」  懐かしい記憶を読み込むからか、比呂の目がうっすらとラルスの色に変わる。  優依はそれを見つめながら、比呂とラルスに齟齬がないことを知った。 「夜、街中がお祭り騒ぎになってて……」  浮かれて馬鹿をする輩はどこにでもいるものだ。だがそれらは、お祭り騒ぎに破目を外しすぎた者だけではなかった。街中のお祭り騒ぎに乗じて、悪事を働こうとした不逞の輩だった。  運悪く、その現場にクラリーチェは居合わせた。  幸い大事には至らなかったが、彼女は怪我を負った。  優依の握った右手を持ち上げ、その時の傷を見るように手首に口付ける。 「クラリーチェが襲われたって聞いた時、足元から世界が崩れていくような気がして……頭が真っ白になった……無事で、本当に良かった……!」  彼のかすかに震えた声は、聞いている方が胸を抉られるような悲痛な叫びに聞こえた。  優依は手を取られたまま、あの時の状況を思い出す。  あれは。 「……あれは、俺が、悪いんだ……」  記憶を辿ってぽつりと漏らした声に、比呂がいぶかしんで顔を上げた。 「優依?」 「あの時は……満月で、月がすごく綺麗だったんだ。街も神殿もお祭り騒ぎで、少しくらい良いかと思って黙って外に出たから……」  喧騒を避けるように人目のない場所へ行けば、不逞の輩に出くわすのはある意味当然だった。  何も考えずふらりと外に出た自分が悪いのだ。  そう弁解するでもなく呟いた優依を、比呂は怪訝な顔をして凝視した。  握ったままの手を一度強く握ると、気付いた優依が顔を上げる。 「……腹減らないか?」  曖昧な色を浮かべた優依の瞳に、比呂は屈託なく笑った。 「は?  今何時?」  瞬時に何時もの強い瞳に戻った優依の声に、比呂は立ち上がって外を指差す。 「もうすぐ昼だ」 「うわぁ……俺そんなに寝てたのか……」 「担任に連絡は入れてあるから大丈夫だぞ」  根回しはさすがだが、優依は転校二日目にして早くも授業をサボってしまったということだ。思わず嫌な顔をしても仕方がない。 「で、あんたは……」 「比呂」  被せて名前を告げられ、優依の表情が歪む。 「……比呂は、授業は?」 「俺は生徒会権限があるから、ある程度は自由が効く」  むすっと不貞腐れた表情を浮かべたまま口を開いた優依を笑いながら、比呂もしれっとサボタージュ発言を告げる。 「少し早いけど、作るか……」  綺麗な顔に渋面を作る優依が面白くて、肩を震わせながら比呂はキッチンに向かう。  優依はその後ろ姿と発言に渋面を忘れて目を瞬いた。 「作れるのか?」  食堂が完備されている寮にて、自炊する男子生徒はそう多くはないだろう。ただでさえ偏りがちな食生活を送っている食べ盛りの男子学生にとって、バランス良く、腹一杯に、は難しい課題だ。  意外だと言外に告げる優依の声を背中で聞きながら、比呂は調理のために手を洗う。 「前に一回作って、以来ちょっとハマってんだよ」  心持ち楽しそうな声に、優依は顔をしかめた。  優依も寮生活は長い。必要に迫られたこともあり、ある程度のことは何でも出来る。自炊も、味の優劣を問わないなら自分一人ならなんとかなる。だが、楽しい感覚を抱いたことはない。 「前作ったのが美味かったんだけど、二度と同じ味にならねぇんだよな」 「……分量通りにやれよ」 「前も適当だったから、覚えてねぇよ」 「毎回味が違うって、お前チャレンジャーだな……」 呆れた優依の声に楽しそうに笑いながらも、比呂は手慣れた様子で準備を進めていく。優依はそれを何とはなしにに見つめながら、意識を淵に沈めるように潜らせる。 (クラリーチェ…………)  本人がハマったと言うわりに、比呂が作った料理は可もなく不可もなく、と言うところだった。本人は以前偶然出来た味を再現したいだけなので、凝ったことをしようとは思わないので当然の結果だった。  味に煩くない優依はそれを有りがたくご相伴にあずかり、普通に会話している事実におかしな気分になる。しかし今それを比呂に追及する気にはなれなかった。 「昼から授業に出るのか?」  後片付けも終わり、せめてもと優依が煎れたコーヒーをすすりながら比呂が問う。 「出るよ、さすがに」  転校二日目にしてサボり癖をつけたくない。  答えると比呂はわずかに不服そうに顔を歪めたが、優依の顔色を見て頷いた。 「またあるようならちゃんと診てもらえよ」  ごく自然に、比呂の手がするりと頬を撫でた。赤みが戻った優依の頬は、倒れた時よりずっと温かくなっている。  目を細めてその瞳に慈愛の色を見せる比呂は、優依が倒れる前よりずっと肉体的距離が近くなっていた。躊躇わず触れる体温が、心地好さと不愉快さを同時に抱かせる。 「……さっきから近くないか?」  羞恥より先に戸惑いが現れて、優依の柳眉が険しくなる。  意識的ではなかったが、触れることを自制していなかった比呂ははっとして優依を見るが、近距離になんら不都合は感じない。 「近い方が触りやすいからな」  臆面もなく吐き出せば、優依の眉間の皺がますます濃くなる。 「むやみに触るなよ」 「ムリだろ、口説いてるんだから」  さらりと出た台詞に、優依の目が一瞬細められた。 「なんで?」 「え?」 「なんで俺を口説くんだ?」  笑みさえ浮かんだだろう問いかけは、比呂にとっては予想外の切り返しだった。  一瞬言葉に詰まった比呂を、優依は妖艶とも言える笑みで黙らせた。 「即答出来ないなら口説くんじゃねぇよ」 「……っ優依!」  掴もうとした手をひらりとかわし、優依は立ち上がって玄関へと向かう。比呂が慌ててそれを追うが、優依は振り向きもしない。 「あぁ、そうだ」  しかし扉に手をかけたところで、優依は後ろに追従してきた比呂を振り返る。  優依を見つめる動揺する顔が、少し可愛らしく思えた。 「ミュフィアに会ったことあるか?」  優依の問いかけは唐突で予想外で、比呂は瞬時に難しい顔をした。 「それは、女神ミュフィアのことか? だったら あるわけないだろう……」  創世神レグルスの愛娘、慈愛の女神ミュフィアは、巫女ですら接触が難しい女神だ。一介の英雄になど、歯牙にもかけないに違いない。  優依は一瞬考えるような仕草を見せたが、比呂の言葉に納得したように頷いた。 「そうだな……俺も会ったことないしな……」  ぽつりと言葉を落として、優依は比呂の部屋を後にした。 「あ、良かった、見つけた、獅堂くん!」  比呂の部屋を後にして教室へ向かう途中、お約束のように優依は広報門倉充樹に捕まった。  足を止めるのも煩わしいが、無視すればそれはそれで煩わしそうだ。睥睨して振り返る。 「ごめんね、獅堂くん。今朝のこと謝ろうと思って」  崩れることのない端正な顔に爽やかな笑みを浮かべる充樹は、意図はなくとも人の目を奪う。  剣呑にすがめた目を戻し、優依は肩を竦めた。  大々的に広まったありもしない話は、今さら謝罪されたところでどうにかなるものでもない。  優依の目に浮かんだ明らかな今更感に、充樹が苦笑する。 「いや、あんな書き方するとは思ってなくて……」  充樹は生徒会広報と言う立ち位置にいる。本来ならば、生徒会の施策や業務内容の告知、彼らのスケジュール管理を担うのが仕事だ。なので新聞の発行には、直接関わりはない。ただ充樹の下に、新聞部や放送部など、広報に必要な機関が置かれている。新聞を介して告知を行うことも多いので、充樹と新聞部はそれなりに親密だ。  今回の優依の件、情報をリークしたのは充樹だ。昨日の会話は、制服に忍ばしたICレコーダーが一部始終録音していた。充樹はそれを、新聞部に手渡した。  内容云々の校閲は、充樹の知るところではないのだ。  ただ。  充樹は心底申し訳なさそうに、流麗な眉を下げた。 「今朝ひーくんにすごい剣幕で怒られちゃってね……本当にごめんね、獅堂くん」  しゅんと萎れた花よろしく身をすくませて頭を垂れた充樹を、だがしかし優依はいぶかしんで眉をひそめた。 「……ひーくんて誰だ?」  根も葉もない話が真しやかに囁かれるのは気分がいい事柄ではないが、そんなことより今気になる単語があった。  人の呼び名に違いないだろうそれに、優依は覚えがない。  怪訝だが怒りがこもっていない優依の声に、充樹はほっとした後人が悪そうに笑った。 「うちの会長のことだよ。内輪はひーくんって呼ぶんだよね」  比呂だから、ひーくんね、と笑った充樹に、優依は思わず噴き出した。  そんな可愛らしい呼び名で呼ばれるほど、本人は可愛らしい存在ではない。  声をたてて笑った優依を、充樹が眩しいものを見るように目を細めて見つめる。 「獅堂くんはやっぱり笑ってた方がいいね」  ピタリと笑い声を止めて真顔になった優依に、充樹が魅力的な笑顔を見せる。 「もちろん怒ってる時も凄みが増してキレイだけど、笑ってた方が周りが幸せな気分になるよ。望月くんと五十嵐くんといる時も、そうやってキレイに笑うんだろうね」  充樹の声は、悪意でもなく嫌味でもない素直な音だった。  しかしわずか二日で優依の周辺を知る充樹に、優依は剣呑に目をすがめる。 「獅堂くんは知らないだろうけど、望月くんも五十嵐くんも意外と有名なんだよ」  ふふふっと慕わしい笑みを浮かべた充樹が、不信感露にする優依に口を開く。 「五十嵐くんは一年で珍しく風紀委員長の下にいる子だし、望月くんは……小さいものを愛でたい倶楽部から絶大な人気が……」 「ちょっと待て、なんだ、そのいかがわしい倶楽部は」  一瞬口にするのを憚っただろう充樹に、優依がすかさず突っ込む。だが充樹も心得たもので、笑いながら首を振る。 「あぁ、大丈夫だよ。害はないから」  ただそこにある小さくて愛らしいものを、見守るように愛でたいだけなのだ。基本接触、お触り禁止。なので旭自身、そんないかがわしい集団に見守られているとは夢にも思っていないだろう。  部活・倶楽部、同好会、おおよそ人が集まって活動するためには、生徒会の認可が不可欠だ。広報は窓口である。充樹の元には嫌でも情報が入ってくる。  危険な集団は生徒会はもとより、風紀委員の監査に置かれることなる。  だから危険な集団ではないと、充樹は軽く笑う。  一年生にして風紀委員長直属の柊平と、小さくて言動が小動物くさい旭が一緒にいると自然視線が集まる。そこに美貌の転校生で名高くなった優依が加われば、目立つなと言う方が無理な話だ。 「教室で笑ってるだけで眼福だって、みのりちゃんが騒いでた」 「……今度は誰だよ?」  再び知らない呼び名に、優依がげんなりとして尋ねる。 「みのりちゃんは俺の彼女。獅堂くんたちと同じクラスなんだよ」  男らしく笑った充樹に、優依が思わず瞠目した。  気付いた充樹が、楽しそうに口許に弧を描く。 「俺に彼女がいたら意外だった?  それとも彼氏じゃなかったことにびっくりした?」  悪戯をしかける子供のような軽薄さで充樹は笑い、優依は小さく肩を竦めるだけにとどめる。  充樹の彼女が同じクラスなことにも驚いたが、正直彼が誰と付き合えると言う事実に驚いたのだ。顔は問題なので、相手探しに躍起になることはないのだろうが。 「二週間前は彼女だったけど、三週間前は彼氏だったよ。一ヶ月半前も彼氏だったし、二ヶ月前は彼女だったかな」  何も言わない優依を良いことに、充樹はペラペラと己の遍歴を述べた。  優依の顔がうっすらとひきつる。  男前だが、ここまでとっかえひっかえでは、相手も嫌がるだろうに。  嫌悪を見せた優依に気付いた充樹が、わずかに眉尻を下げた。 「俺、なかなか一人と続かないんだよね。向こうから好きだって言ってくれて付き合うけど、一週間か二週間経つと向こうからフラれるんだよ」  好きでとっかえひっかえではないと、充樹の口調はどこか弁解めいていた。  愚痴を吐き出すように、肩から力が抜ける。 「フラれる時も、大抵みんな『イメージと違った』って言うんだよ」  自嘲的に笑った充樹の顔は、それでもなお崩れることなく様になっていた。 「好いてくれるのは嬉しいし、勝手にイメージ抱くのもいいんだけどね、それを押し付けられるのはちょっとね……」  勝手にイメージを築き上げて近付いて来たと思ったら、その抱いたイメージと違ったからと幻滅されるのだ。充樹が相手のイメージと違うのは当たり前だ。彼は彼らのイメージの産物ではない。 「俺は俺なんだから、文句を言われても仕方がないよ」  相手が充樹に抱く幻想は様々だ。向こうが勝手に抱くものだから、それは個々に違っていて当然だ。充樹はそれにいちいち付き合う気もないし、義務もない。  どこか疲弊をにじませる声だったが、優依はそれに釈然としない気持ちを抱いた。 「……あんたそれと同じこと俺にしただろ」  優依はその存在だけで話題の的だ。それに事を大きくする生徒会長と言う要因が加わり、優依の存在は本質とは関係なく騒ぎ立てられている。  自分の知らないところで勝手なイメージが出来上がっている事実は、充樹が一部加担している。  自分が迷惑だと思うことを平気で他人にもしておいて、なんて言い種だろうか。  優依の真っ当で不機嫌な声に、充樹は苦笑する。 「だからそれを謝りに来たんだよ。俺も人間だからね、自分のことはよく見えなくなるよ……」  例え自分が同じ目にあっていたとしても、相手がそれでどんな心情を抱くかまでは気が回らない。そこまで他人を慮れるゆとりは持てない。  自分のことになると、人とは目が曇りがちになるものだ。 「ダメだって知っててもね」  充樹の言い訳がましい、だが静かな口調に、優依はわずかに瞳を伏せた。  誰かが何かを囁いた気がした。

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