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第10話

「あぁ、言っていることはわかる」  昼、違うことなく連れ出された優依は、何気なく先のやり取りを漏らして思いがけず比呂に肯定された。  毎回嫌々ながら連れ出される優依は、実は本人が思うほど周りから嫌っているように映っていなかった。律儀に教室まで迎えに来る生徒会長は毎回とろけるような笑顔を浮かべている。  それに浮き足立つクラスメイトに、優依は引き渡されることが多い。嫌だ嫌だと言いながら、優依の雰囲気は初日のような絶対零度を纏わない。綺麗な人形のように表情が抜け落ちることもなく、周囲を凍らせるような声音が落ちることもなく、反射的に手が出ることもない。嫌悪露わにしながらも、底辺を知るクラスメイトたちから見れば優依の今の状態はごく普通に映るのだ。昼に習慣のように現れる比呂に、初日ほど酷くないから大丈夫だと言う、優依からすればいたく迷惑な見解により引き渡されていた。  噂が鳴りを潜めたとはいえ、目立つ二人には違いない。二人が食事をとるのは、決まって人気の少ない空教室やら中庭やらだった。  食堂からの弁当ランチを突きながら、比呂は件の風紀委員長を思い浮かべる。 「あいつも悪気があるわけじゃないんだろ」  ただ出来るからやる。もしくは、柊平の手を煩わせたくないからやる。どちらかと言うよりは、両方なのだと比呂は思う。悪気ない、絶対の善意。ただ、仕事を取り上げられた柊平からすればありがた迷惑。ただの独りよがり。 「そこにいて何もしないのは、自分の居場所がないのと同じだからな」  柊平の言い分は真っ当であるし、理解できる。  そう落ちた比呂の言葉は、どこか水分を含んだように重くじっとりとしたものだった。  思わず優依のお茶を持つ手が止まり、比呂の顔を見る。すぐの合った視線に、逃げるように目線を下げたのは優依で、胸に警鐘のような音が鳴る。 「あいつには言っておくが、これは実際に仕事を取り上げられないとわからないことかもな……」  軽い吐息とともに落とされた言葉に、優依の胸がきゅうっと締め付けられた。微かに遠くに感じる頭痛に、優依の綺麗な顔が歪む。 「優依、少し歩かないか」  気付いた比呂がはっとした顔になり、食後のお茶を飲み干してテーブルに置く。  タンっと、軽快な音が空気を変え、優依は習うようにお茶を飲み干して腰を上げた。  弁当箱を片付け、比呂は優依を随分と遠くまで連れ出した。  どこまで歩くのかと優依が訝しむほど、人の気配と人工物が遠のいていく。  学園は広大な土地にある。校舎と男女二棟の寮、体育館、大ホール、運動場等、それらを有してなお余りある土地は、それら覆い隠すように緑に包まれている。  目測を誤った結果残ってしまった敷地は、癒しと憩いの場として提供されている。元は山を切り開いて作った土地ということもあり、オリエンテーションにも使用出来そうな小高い山や森は、ほぼ手つかずの自然である。  緑深い森を分け入る比呂の歩に迷いはなく、森に入って随分と歩くと、小さく開けた場所に出た。  木々が自然と拓けただろう平地に、天井から木々の隙間を縫って光が降り注ぐ泉があった。静謐な水を湛える泉は、弱い陽光の中にあったさえ輝き、底までも見通せるほど澄んでいた。  優依の呼吸が一瞬止まり、驚愕に目が大きく見開かれる。 (デア・マディズの泉……)  ふらりと、泉に近付いた優依の後ろから、比呂の落ち着いた声が問いかける。 「似てるだろう?」  無意識に、優依の首が縦に振れた。  デア・マディズの泉は聖域の一つだ。創世神レグルスの愛娘・女神ミュフィアが降臨した場所とされ、その湧きいずる泉には癒しの力が宿るとされた。クラリーチェが愛し、よく訪れた場所でもある。その場所に驚くほどよく似ている。  ふらふらと泉に向け歩き出し、優依ははたりと足を止めた。 「待て。なんでお前がデア・マディズの泉を知っている?」   ぞろりと低くなった声に、比呂がぎくりとした。  デア・マディズの泉の数多る聖域の中でも唯一、女神ミュフィアが降臨したとされる場所だ。こんこんと湧き出る泉には神秘の力が宿り、それ故に神殿はそこを聖域とした。デア・マディズの泉は、レオ・コルニオス神殿の奥の、さらに奥の院に存在している。一般参拝者はもちろん、数多いる巫女たちですらおいそれと足を踏み入れることは叶わない場所である。祭司長をはじめ、特別を有する巫女にしかその泉に近付くことは出来ない。もちろん英雄とはいえ、一介の騎士にすぎないラルス・ライルが立ち入ることなど言語道断だ。  それを何故、この場所が溜息が出るほど似ていると知っているのだ。  ぎろりとした優依の視線に、比呂はバツが悪そうに頬をかいた。 「……一度、入ったことがある」  ぼそりと落ちた告白に、優依の目がぎょっと見開かれた。 「そもそも! あの神殿の警備はザルだぞ!? 俺じゃなくても奥に行くことは出来た!」  何か痛ましいものを見るような優依の視線に、比呂は焦って弁解するように言葉を足した。  レオ・コルニウス神殿は、世界でも唯一特別な神殿だ。創世神レグルスに一番近い場所とされ、そこでは極悪人でさえも膝を折り頭を垂れた。世界中の人が神々の存在を過たず認識し、信じていた。だからこそ世界で唯一特別であるレオ・コルニウス神殿に無礼を働こうなどと思うも者はいなかった。  人々は知っていたのだ。神殿に悪事を働きに入るという行為がいかなることかを。  神殿は、不逞の輩が入って来ないという前提のもとで警備がされていた。ラルスでなくとも、入ろうと思えば誰にでも警備の目を盗むことは出来た。 「罰当たりだな、お前……」  今ならともかく、あの信心深い人々が当たり前に暮らす中にあって何より罪深いだろう行為を働くとは。  うっすらと引き気味の優依に、比呂は自嘲的に口元を歪めた。 「あの時は必死だったからな……」  ぼぞりと落ちた声に、ラルスの色が滲んだ。  あの日、ラルスが五回目の遠征から凱旋を果たした日、クラリーチェが怪我をした。夜も更けたころラルスはその報せを聞いた。クラリーチェ・ファルクと言えば、騎士の中でも有名な巫女だった。女神ミュフィアの化身とさえ囁かれる彼女の怪我に、騎士たちは色めきたった。彼女の安否を問う騎士たちを尻目に、ラルスは気付けば神殿へと走り出していた。  ただ一目、クラリーチェの無事な姿を確かめたかった。そうしなければ足元から世界が崩れていくようで、いてもたっていられなかった。神殿に忍び込むという常軌を逸した行動さえ、迷う隙がなかった。そして走りに走り回って辿り着いたのが、デア・マディズの泉だった。  焦がれた彼女は、その泉の前で一人佇んでいた。  月が美しい夜だった。月光を吸ってなお一層輝くような銀糸の髪が、穏やかに一筋そよいでいた。自身が煌めいているのかと錯覚するほど輝いて見えるのに、彼女の透明な光を湛えた瞳は重く伏せられ、何かを耐えるように唇は引き結ばれていた。華奢な体を細かく震わせる様は痛々しくさえ映り、白く細い手首に巻かれた包帯がさらにそれを煽っていた。  胸が締め付けられるほど哀しく、それでも凄絶に美しい姿だった。  飛び出して安否を問うことも、細い肩を抱き寄せ愛を囁くことも、何一つ思い浮かばなかった。衝動的に走り出し、後先考えずに犯罪じみた行為まで犯したのに、己が入っていくことが罪のように思われたのだ。目の前の広がる空間が神聖すぎて、場に分け入ることが躊躇われた。ただその場から一歩も動けず、息を殺し気配を消すことに必死になっていた。  デア・マディズの泉を見たのは、その一度きりだ。それでも、あの時の風景はクラリーチェの哀しい姿と友に克明に比呂の中に刻まれていた。 「いたのか、あの時……」  懺悔にも似た比呂の告白の後、優依はぽつりと漏らした。  あの時、クラリーチェが怪我をした日。思わず外に飛び出した。月が綺麗で、街はお祭り騒ぎで、うかれていて。少しくらい大丈夫だと思ったのだ。見られないと思っていた。でもどうしても一目、無事な姿を確認したかった。五度目の凱旋で、世界は間もなく是正される。  あの時クラリーチェのを外へ引きづり出したのは、ラルスへの思慕だ。  月が綺麗で浮かれていたと、嘘の言い訳をして祭司長に叱られた後、デア・マディズの泉まで来ていた。  これ以降の遠征が無事に終わりますように、勇者様の身に何事もありませんように。  創世神レグルズを祀る神殿において、その巫女が祈るのはかの英雄のことだけだった。あの場にラルスが現れ、迷うことのない真摯な言葉で愛を囁いたのなら、クラリーチェは全てを捨ててしまっただろう。  デア・マディズの泉で、女神ミュフィアに希ったはずだ。  英雄ラルス・ライルのことを。  そう、この場で。  女神ミュフィアと。 「―――っ!」  ズキンっと頭が痛んだ。  こめかみを押さえ、俯く。 「優依!」  すぐに気付いた比呂が、小さく体を折った優依を支えるように手を伸ばす。  正面から抱きとめると、力を抜いた優依の頭がぽすりと比呂の左肩に落ちた。 「大丈夫か?」  問いかけに、優依は頭を預けたまま頷く。  最近、時折ある。倒れたあの日以降、一瞬穿つような痛みが優依を襲うことがある。何かを思い出すような、それを押し留めるような、そんな警告じみた痛みだ。 「どうした?」  優依が離れないのをいいことに、比呂が柔らかな質感を持つ薄茶の髪をそっと梳く。  その仕草が思いの外心地よくて、優依は詰めていた息を吐くように目を閉じた。食後のとろりとした眠気を遠くに感じる。 「……少し、疲れてるんだよ」  倒れた時と同じ痛みだと悟られるわけにはいかなくて、小さくそう嘯く。  音にならないような小さな声だったが、それでも触れた肩口から直接比呂に届けられた。  触り心地の良い髪をさらさらと梳きながら、比呂が小さく笑う。 「あぁ、周りに人が多いからだろう?」  美貌の転校生として名高い優依の周囲は、いつも賑わしい。休み時間は教室まで人が押しかけ、廊下を歩けば小さな人だかりが出来る。それは優依が押しかける皆に気さくに応えることで拡大をみせている。生徒会として充樹が動かざる得ないほどだ。 「充樹の話、断ったんだって?」  撫でる手を頭から背中に回した比呂が、思いついたように尋ねる。 「人が多くて疲れるなら害はもう出てる。考え直せ」  ゆっくりと背中を滑る手が気持ち良くて、優依の手が無意識に縋り付くように比呂の腰に回った。  耳元で落ちる声がひどく心地良い。  でも何故だろうか。彼を心地良いと感じれば感じるほど、胸が鉛を飲んだように重く感じる。優依の中のクラリーチェは温かな光を湛えているはずなのに、英雄ラルス・ライスのそばにあって時折陰ったように仄暗くなる。  そんな時、優依は比呂を真っ直ぐ見ることが出来ない。彼の目はいつだって優依を逸らさずに見ている。倒れた以降からだろうか。比呂の瞳は雄弁に語るのだ。クラリーチェに愛を告げたように臆面もなく。  遠くでかすかに警鐘のように鳴る頭痛に、優依は思考を巡らせることをやめる。  すると取って代わったように睡魔が台頭し、頭から背中を滑る比呂の手がそれに拍車をかける。  あまりに気持ちが良くて、擦り寄るように肩口に額を押し付ける。  比呂の右手が髪を耳にかけて滑り、指の背が頬をそっと撫ぜる。すうっと辿った指先を追うように優依が頬を寄せると、大きな手のひらに包まれる。  人肌がこんなに気持ち良いと夢心地で目を閉じていた優依の唇に、しっとりと唇が重なった。  存在を確かめるような、それでもしっかりとした口付だった。  ばちっと優依の両目が見開かれ、それに反応するように比呂の手がぱっと離れた。すでに全面降伏よろしく両手を上げている。  うっすらと顔色を悪くさせた比呂を前に、優依は綺麗な顔をわずかに歪めて見せた。 「手が早ぇな……」  感情が乗らない声だった。  いつか聞いた、腹の底から怒りを吐き出すような声であれば、まだ機微がわかりやすかったかもしれない。しかし優依のそれに色が見えなくて、比呂はぞっと背筋を凍らせた。 「蹴り倒される覚悟はあった」  初めから報復覚悟の犯行でしたと良い度胸で告白した比呂に、優依はならば望み通りにと拳を握った。  眠気を完全に振り払った優依の瞳が、それはそれは楽しそうに爛々と輝いていく。  咄嗟に手を出されるより、覚悟をもってその拳を受けるほうがずっと怖い。  手加減なしで飛んだ来るだろうそれに、比呂はぐっと体に力を入れて目を瞑った。  だが衝撃はなかなか訪れず、焦らされるような生殺し状態に比呂がそろりと目を開く。 「―――っ!」  眼前に迫った優依の顔に比呂がぎょっとした次の瞬間、バチンッと小気味良く両頬が鳴った。  拳で殴られるより、足で蹴倒されるより、ずっと減刑された処分だった。だが、優依に手加減がないのは事実。両側から逃げ場なく力を加えられ、頭蓋骨を直接叩かれたような衝撃があった。  両頬を押さえて蹲った比呂を見下ろし、優依は満足げに一つ頷いて見せた。 (まぁ、今のは俺も悪かったし……)

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