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第11話
夢を見た。
深く深く、深淵のように闇が広がっていた。ずるずると闇に飲まれるように落ちて落ちて、そこで蹲るクラリーチェを見つけた。
闇の中、クラリーチェのか細い姿だけがはっきりと浮かび上がっている。長い銀糸の髪を垂らし、崩れ落ちるように蹲るクラリーチェ。流れる銀糸が邪魔をして、その花の顔が見えない。視界に映る華奢な背中が小刻みに震えるようで、たまらず一歩踏み出す。
だが足元が何かにぶつかった。はっと気付いて両手を前に出すと、透明な壁に触った。
「クラリーチェ!」
邪魔な壁を取り除こうと思い切り拳をぶつけるが、強固すぎる壁はビクともしない。ドンドンと両手を叩きつけ彼女の名前を呼ぶ。
薄い肩が震え、両手で顔を覆ったクラリーチェの指の隙間から、はらはらと何かが煌めいて落ちていく。
美しい銀糸の髪が煌めくからではない。彼女の透明な瞳から零れ落ちる涙だと気付いたら、壁を叩く手により一層力が入った。
「クラリーチェ! クラリーチェ!!」
何故泣いているのか。こんな闇の中で独り。
嗚咽に喉を震わせ、壊れそうなほど細い背を丸めて。耐えるように、悔いるようにただ涙する。
そしてそれを、どうして自分はわかってやれないのだろう。こんな壁に阻まれて、ただ苦しみ哀しむクラリーチェを眺めていることしか出来ない。
世界でただ一人、自分しかクラリーチェをわかってやれない。自分しか、彼女を救ってあげられない。
それなのに。
彼女が何に傷付き苦しみ、悔いているのか。どうしてもわからない。
これが、距離だ。
自分とクラリーチェの間に横たわる齟齬だ。
不甲斐なくて、ありったりけの力で壁を殴りつける。
「クラリーチェ!!」
幾度目かの大声に、彼女の顔がゆっくりと上がった。
流れる銀糸から顔を上げ、泣き濡れて目を真っ赤に腫らしながらも、彼女は夢のように美しかった。
―――ごめんなさい
―――愛してる
嗚咽に混じって届いた声は、それだけだった。
早朝と呼べる時間に目が覚めた。土曜で休みだ言うのに、あまりにも自然に目が覚めてしまって再び眠れる気配もない。起きるのが勿体ない気もするが、訪れない眠気を待つことほど無駄なことはない。
優依は爽快な気分でベッドを抜け出し、同室者の旭を起こさないよう注意して部屋を抜け出した。
十月の朝はまだ早い。真夏に比べれば幾分か日の出は遅くなったのだろうが、優依が散策に出かけたこの時間、すでに朝日は顔を出していた。
朝の静謐な空気の中を、宛てもなく歩く。昨晩嵐のように降った雨は、嘘のように上がって空が美しい。一晩で洗い流された空気は澄んで、秋の気配をさせて涼やかだ。
入れ替わる季節を取り込むように、一つ深呼吸する。
あれ以降、比呂は世界を手にかけた理由について触れない。あの時優依が倒れず、比呂の問いに答えることが出来ていたら、彼はその理由を語っただろうか。
優依がこの学園に入ってそろそろ一月が経つ。弥勒比呂と言う一人の人間を知る機会は十分にあった。彼はいつだって躊躇いも臆面もなく、優依を真っ直ぐと見る。英雄ラルス・ライルを知らなくても、弥勒比呂を知ることは充分に出来た。
その彼が、口を閉ざし目を逸らす理由。
後ろめたいからだ。
英雄ラルス・ライルを嫌う優依が出す答えは、確かにその通りだ。だが比呂が目を逸らす時、優依もまた彼を真っ直ぐに見られない。
クラリーチェの命で生かされたラルスが、世界を壊したのだ。その理由に関係がないはずがない。
比呂が、優依に告げられない理由がある。それは、優依が彼を真っ直ぐに見られないことに繋がっている。全ての答えは、夢の中にある。優依が知らない、クラリーチェの記憶の中に。
ふと気付くと、例の泉の前まで来ていた。夜半の嵐のような雨は、枯葉と言わず若葉まで摘み取ったようだった。水面でまだらに模様を描いている。隙間からは濁った水が見え、昨日見た透明度の高さはどこにも見当たらない。
美しいデア・マディスの泉も、こうなってしまえばとたんに神秘性を欠く。
ここはあのデア・マディスの泉ではないのだと、当たり前のことを今更のように思う。
不意に背後に草を踏む音がして、優依ははっとした。早朝の森の奥に、誰かがいることなど考えもしなかった。だがここは緑豊かとは言え、学校の敷地内だ。学生がいてもおかしくはない。逆に言えば、人の手が入っているからこそ、この泉はデア・マディスの泉のように美しいのだ。
背後に首を巡らせ、優依はその綺麗な顔に怪訝な表情を浮かべた。
枯葉を踏み、図らずも音を立ててしまったのだろう。どうにもバツが悪そうな顔をした比呂が、ジャージ姿に長靴を履き、頭にタオルを巻いた出で立ちで立っていた。手にはバケツとゴミ袋を携えている。
「……何してんだ、お前……?」
男前の些か不似合いな姿に呆気にとられ、優依はそう突っ込む。休日の、それも早朝一番に会いたい姿ではない。
だがそれは比呂こそ同様で、機能性重視の不恰好な姿に嫌そうに顔をしかめる。
「それはこっちの台詞だ……」
呟き、ガツガツと長靴の音をさせて優依のそばまで来る。
探るように比呂の目が一瞬眇められ、当たり前のように頤を取られた。
「眠れなかったのか?」
顔色を見るように覗き込む、真摯な瞳と視線が絡む。
「……目が覚めた」
些細な顔色の変化にも目を止める男の視線は、痛いほど真っ直ぐだ。それを思うと、比呂の目を真っ直ぐ見つめ返せないのが少し歯痒い。
優依と目が合うたび、比呂は蕩けそうな笑顔を見せる。その見惚れるような笑顔を見るたび、クラリーチェは胸をときめかせる。歓喜に震えて、気分が高揚する。だがその後、優依は思い出したように息苦しくなる。
さらりと髪を撫でた比呂の手を好きにさせながら、優依はそっと視線を落とす。
ドキドキと胸を高鳴らせるのとは違う、早まる鼓動。その手を嬉しいと思うのは誰で、その優しさに後ろめたさを覚えるのは誰なのか。
「何してんだ? こんな朝早くから」
髪を梳く手が心地良くて、振り払うように一歩比呂から距離を取る。態とらしく上から下までを検分するように視線を動かし、生徒会長様の不恰好の理由を尋ねる。
たまたま目が覚めた優依と違い、比呂は明らかな意図があってこの時間にこの格好で現れている。
比呂は触り心地の良い髪が遠のいてはっとし、優依の幾分呆れた声を顔を背ける。そして言いにくそうにその格好の理由を口にした。
この学校の三分の一は手付かずの自然である。オリエンテーションや部活の合宿、体育祭にも一部使用されるなど、学校行事に使用されている。だが人が手を入れ、管理をしている部分は実は少ない。校舎から離れれば離れるほど人の手から切り離され、自然はより自然のまま野放図にされている。当然鬱蒼とする森の中へ入っていく生徒はいない。
比呂がこの野放図にされた森の奥で、この泉を見つけたのはもう二年近くも前のことだ。中学卒業を間近に控え、その頃からラルス・ライルの人生を追体験するようになった。
前世の記憶、自分とは違う個性・感性を持った人物の生涯は凄まじく、毎夜見る夢に比呂の精神は疲弊していった。壮絶な人生と、胸を焦がすほど愛した美しく哀しい女性のことを思うと、日常生活をまともに歩むことが難しくなっていた。
当時の比呂は、相当気分が滅入っていたのだろう。ただ一人になりたいと、最悪戻ってこれなくても構わないと、この鬱蒼とした森の奥へと足を踏み入れた。宛てもなく、それこそ遭難するように歩き続けた。
そして突然現れたこの場所に、比呂は言葉を失った。
冬の冷たい風の中に、春の暖かさが垣間見える日だった。雲の隙間から漏れる光は暖かく、柔らかに降り注いで水面を照らしていた。キラキラと輝く水は透明に澄み、どこか甘い水の匂いを鼻腔に届け触れた水はピリリと冷たく、比呂はそこで初めて声を上げて泣いた。
クラリーチェを愛していた。それが自身の一部で、世界の全てであったように。
目の前の泉は、いつか見た風景と酷似していて、彼女への思慕で溢れかえった。
その日から、比呂は夢を見ることがなくなった。ラルス・ライルが、正しく比呂と一致したのだ。
夢は見なくなったが、時折思い出すように記憶が浮かぶようになった。
英雄ラルス・ライルが弥勒比呂としてここにいるのならば、彼の愛したクラリーチェもどこかにいる。そんな確信があった。出会うことが出来たのなら、いつかこの泉を二人で見てみたい。あの時はただ、息を殺して見つめることしか出来なかった。今度は彼女の隣に立ち、この美しい泉をともに見たい。
あの時から、願かけのように、休日の早朝に泉に来て清掃をすることが比呂の日課になった。泉は森の奥にあり、人などまず来ることはない。だが万が一にでも人が入って、思い出を踏み荒らされるようなことはしたくなくて、比呂はこの場を秘匿することに心身を傾けた。
おかげでこの場所に人が来ることなどなくなった。
「……お前、馬鹿なのか……?」
いかにしてこの場所を秘匿したのかを語った比呂に、優依の言葉は容赦がない。
だが比呂は悪びれた様子もなく、肩を竦めて慣れた手つきで掃除を始めた。
優依も諦めたように息を吐くと、比呂と一緒に泉に浮く葉っぱを取り除き始めた。
どれくらい掃除に没頭していただろうか。陽は昇り、世界は早朝の静けさから賑やかさに切り替わっていた。休日のゆっくりとした朝が訪れ、にわかに空気を騒がしくさせる。
優依は心地良い泉から上がり、ゴミ袋を比呂に渡した。中に入るのなら長靴をと勧める比呂を断り、素足で泉に入った。十月に入る頃とは言え、日中はまだ残暑が厳しい。早朝であっても、広間に暖められた水温は気持ちよく優依を楽しませた。面倒だと、靴だけ脱いで泉に入った優依の服は、太腿まで濡れている。
水を含ませ重そうに歩く優依に、比呂が頭に巻いていたタオルを取って肩を竦める。
「ほら、こっちに来い」
使わなかったゴミ袋の上に優依を座らせ、比呂が裾をめくる。今更だが、濡れた足で靴を履かせるよりはマシだろう。
優依の片足を自分の膝に乗せ、タオルで丁寧に拭いていく。
膝までめくり上げられた優依の足はおとなしく膝に置かれ、比呂は足の形を辿るように指の先まで丹念に触れる。
「眼福だが、舐めまわしたくなって目に毒だな」
凝視したまま足に指を滑らせ、比呂が独りごちる。
水分を拭き取るのではない、何か別の意図を持って動く指をタオル越しに感じていた優依は、呆れたように深い溜め息を落とす。
「……発言が変態くさいな、お前」
それでも膝に置かれた足は動かされることなくて、比呂は気を良くして調子に乗る。仕上げにと、その足の甲に音を立てて口付けた。
次の瞬間、反射で優依の逆の足が跳ね上がり、不埒な男の顎を蹴り上げた。
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