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第13話

 バタバタと廊下を忙しなく走る音が聞こえた。  時折止まる足音は人気のなくなった教室を覗くもので、誰かの名前を呼ぶ声が段々と近付いてくる。明らかな探索隊に優依は胡乱げに目を眇め、迫り来る彼らの気配に教室のドアに向かった。  優依がいる空き教室は、窓から運動場・体育館が一望出来る場所にある。陽が傾いた放課後、この場所に一人優依がいるのは、旭がどうしても弓道場が見たいと駄々をこねたからだった。  今日の放課後、弓道部が他校合同練習をする。その練習に、麗しの副会長も参加し、挨拶に会長も顔を出すと言う。ともなれば、校内が騒つく原因にもなる。  優依は旭に見に行きたいと請われたが、断固拒否した。人集りになるのが目に見えているところに、優依が行ってはさらに目立つ。何を好き好んで会長を見に行かなければならないのか。  だが珍しく旭が譲らず、行こう行かないの攻防を繰り返すこととなった。見かねた柊平が、折半案としてこの場所を指定したのだ。  ここらからだと、運動場・体育館だけならず、弓道場も射程範囲に入る。空き教室は本来立ち入り禁止だが、そこは風紀委員の柊平のこと、上手く調整をつけてくれた。  だが優依はこの場で、早々に待ちぼうけをくらっていた。一緒に行こうと駄々をこねた本人が、本日まさかの補習で連れて行かれたからだ。  ちらりと時計を見れば部活動が始まる時間を示しており、優依は帰ろうかと思っていたところだった。  そこへ現れたのが思いがけない闖入者で、優依は目を見張ったのだ。  バタバタと迫り来る足音に、優依は開けられる前に勢いよくドアを開いた。  ドン! っと勢いよく開いたドアに、捜索隊の二人の男が固まる。 「誰か探してるのか?」  優依がドアから体を覗かせると、二人の男ははっとしたように姿勢を正した。 「し、獅堂くん!?」  美貌の転校生として名高い優依の突然の出現に、男二人に俄かに緊張が走る。だが彼らは優依の質問に疑問を抱くことなく、素直に探し人を教えてくれた。 「鈴花先輩を探してるんだけど……」 「弓道場にいるもんだと思ってたけど、どこにも見当たらなくて、天音先輩が心配してるみたいで」  そわそわと落ち着きなく語る彼らは、部活が始まったことを知っている。間も無く会長の挨拶も始まるだろう。  その捜索が自主的であるのか強制的であるのかわからないが、弓道場にいられないことが彼らをそわそわさているのだ。  優依は探し人を理解して、軽く息を吐く。 「ここは風紀の管轄だろう?」  生徒会の人間がこっそりとでもいるとは思えないのだが。  案にそう告げると、彼らははっとして、それから首を傾げた。 「獅堂くんは、どうして、ここに……?」  二人が違和感に気付いたことに、優依は余所行き用の笑顔を貼り付けた。 「風紀から借りてるんだ。だから俺がここにいることは黙っててくれるか?」  騒がれると困るから、と少し殊勝な言葉を足して笑うと、二人の男は合点がいったとすぐに首を縦に振った。 「ありがとう。そんな訳だから、ここには誰もいないな」  自分でも上出来だと思えるほどの良い笑顔で礼を言い、優依はだから探すだけ時間の無駄だ、と仄めかす。  彼らは一秒でも早く弓道場に行きたいはずだ。いないと言われた場所を、それでもと優依を押しのけてまで探すことはしないだろう。 「そうか。風紀の管轄だしな」 「他を当たろう。ありがとう、獅堂くん」  優依の目論見通り、彼らは素直に踵を返した。  バタバタと、現れた時と同じように騒がしい音をさせ、二人の男が去って行く。  優依はその後ろ姿を見えなくなるまで見送り、軽く息を吐いてドアを閉める。  そして、さて、と誰もいない教室を振り返る。 「で、理由を聞いても?」  しんと静まり返った教室に優依の声が溶け、教卓の影からおずおずと華奢な体が姿を見せる。  長く伸びた薄茶の髪がふわりと揺れ、二重の大きな目が潤んだように優依を見上げてはにかんだ。 「ごめんなさい、匿ってくれてありがとう」  鈴を転がしたように可憐な声で謝罪を述べると、捜索隊二人の探し人、佐久間鈴花は立ち上がった。  ふわりと羽根が舞うように、鈴花の動きに合わせて薄茶の髪が踊る。小柄で華奢な彼女は、存在そのものが甘やかで儚くも映る。  天上で作られた極上に甘い砂糖菓子のような彼女が、そっと窓辺に近付く。  眼下に見えるのは、人集りが出来ている弓道場だ。本来ならば、鈴花もあの観衆の視線を浴びているところだ。 「行かないの?」  優依は鈴花を知らない。だが旭が散々隣で喚くので、顔と名前、その他の付随情報も知り得てはいる。  副会長・桐生天音と、彼女、佐久間鈴花はセット売りのアイドルのようだ。天音のいるところ、鈴花あり。鈴花のいるところ、天音あり。  問いかけると、眼下を見たままの鈴花の赤い唇がかすかに笑う。そしてひっそりと伏せられた瞳に、暗い影が滲む。  散り間際の美しい花のような切なさに、優依がそっと鈴花の隣に立つ。 「今、天音に会いたくなくて……」  隣の優依の気配に、鈴花が小さく声を落とす。  天音が練習に参加するとなれば、鈴花がそれを見に来る、と言うのはもはや常識の域だ。誰に問われるまでもなく、鈴花の弓道場への登場は、広報ですら疑うことなく織り込み済みとして処理されている。だからこそ、その場にいない鈴花に捜索隊が放たれているのだ。  だが鈴花は、一度も自分から行くと言ってはいない。天音にすら、見に行くとは言わなかった。  セット扱いが嫌なわけではない。  ただ今は、天音に会いたくない。  囁くように話す鈴花に、優依が顔を向ける。  二人の仲の良さを、優依は旭から嫌と言うほど聞かされている。白皙の麗人・桐生天音と、白百合の美少女・佐久間鈴花のツーショットは、ファンでなくとも当たり前のものだった。 「喧嘩でもした?」  優依はフェミニストのきらいはあるが、女性の機敏は理解しない。ありきたりな理由を口にして、鈴花の反応を待つ。  鈴花は吐息のように笑い、緩く首を左右に振る。 「してない……けど、今はちょっとつらいから……」  笑みを浮かべるのに、鈴花の声はどこか暗い。泣き出しそうにも思えて、優依は柳眉を寄せる。彼女の視線が、先程から弓道場に注がれたままで、一度も顔を上げないからかもしれない。  倣うように優依も視線を投げて、目を眇める。  部活が始まる時間は過ぎ、人集りはどんどん増えているようにも見えた。人員整理をする風紀委員の中に、柊平の姿を見つける。離れた位置には、指示を飛ばす広報の姿もある。ただ、中心人物の一人である比呂の姿はまだなかった。 「ひーくんはまだね」  見透かしたような鈴花の言葉に、優依はギクリとして顔を上げた。だが鈴花の視線は変わらず弓道場に注がれたままで、比呂がまだ来ていない事実を述べただけのようだった。だが彼女の姿があまりにも切なく儚げに映るせいか、ひどく含蓄をもって聞こえた。 「ねぇ、優依くん」  この空き教室に逃げ込んで来た鈴花は、優依のことをもちろん知っていた。極上の砂糖で象られた可憐で上品な花のように笑い、鈴花は名乗ってから優依の名前を呼んでもいいかと尋ねた。  甘やかな呼び声に、優依は改めて鈴花に顔を向けた。  優依の胸辺りまでしかない鈴花は小さく華奢で、窓から入り込む夕陽を受けて神々しくさえ映った。柔らかそうな薄茶の髪と、きめ細やかな肌をうっすら染める頬。そして雪原に咲く赤い花のように可憐な唇。天界で丹精に作り上げられた極上に甘い砂糖菓子のような彼女は、だがしかし、その花の顔に暗い影を落とす。  ゆっくりと視線を合わせた彼女が、優依を真っすぐと見る。 「ひーくんのこと、好き?」  優依は突然切っ先を突きつけられたように瞠目し、硬直したまま隣の小さく可憐な彼女を見つめる。  今まで面と向かって、優依にその質問をした人物はいない。優依が比呂を毛嫌いしてることは周知の事実で、名前を出すことさえある種の禁忌だった。だからあえて、優依に尋ねるまでもない質問だったのだ。  だが鈴花はその禁忌を平気で飛び越え、真っすぐと優依に問いかける。  咄嗟に嫌いだ、と言葉が出るには、鈴花の大きな瞳は真摯すぎた。  優依はぐっと言葉に詰まり、拳を握る。  比呂を好きか嫌いかと問われれば。 「……正直……、弥勒比呂と言う個人を、憎むほど嫌いになれない」  会いたくないと心から願った男だ。真っ赤に染まる怒りは、本人を目の前にしてしまえば行き場がない。  それでも。  弥勒比呂と言う個性は、優依にとって心地いい。ラルス・ライルと同一でありながら、比呂はラルスとは違う。ラルスと違うと思ってしまったら、あの個性は魅力的すぎるのだ。  白くなるほど拳を握りしめた優依に、鈴花が羨望に似た眼差しを向ける。 「……優依くんは、嫌いになりたいほどひーくんのことが好きなのね」 「え?」  思いがけない台詞に鈴花を見れば、彼女の可憐な花の顔が穏やかに微笑む。クラリーチェの美貌を見慣れている優依でさえ、ドキリとするほど儚く柔らかな微笑みだった。 「だって嫌いになれないんでしょ?」  いくら憎もうと思っても、嫌おうと思っても、同じだけ気になるし、同じだけ目を惹かれずにいられない。 「……そんな、無茶な結び付け方、ありか…………」  ぎょっとして呟くも、どこかストンっと落ち着いたような感覚に目を瞬く。  ラルス・ライルの魂を持つ男であっても、弥勒比呂は優依にとって心地いい。彼を真っ直ぐに見れない理由を、優依は今探している。彼を見て罪悪感に似た何かを覚えるのは何故なのか。逸らされることなく真っ直ぐに見つめる比呂の視線を、真っ直ぐに見つめ返してみたい。比呂の想いを、疑わずに受け入れてみたい。  巡った思考に、はっとして優依は口元を覆った。 (俺……)  じんわりと頬を染める優依に、鈴花の鈴を転がしたような笑い声が届く。 「わたしも同じ。天音を、嫌いになんてなれない」  優しく目元を和らげた鈴花が、眼下の弓道場に向けられる。優しく見下ろす先には、現れた比呂と天音の二人が見える。誰もが目を惹く男前の比呂と、はっとするほど清廉な美少女の組み合わせは、ただそれだけで絵になる。 「ひーくんも、天音も……二人とも大好きだけど、それでもああやって二人でいるところを見るのは辛いわ」  比呂が優依に執心しているのはよく知っているし、会長と副会長がセットで一緒にいることもよくわかっている。でも気軽に誘われて、当たり前のように一緒にいる姿を見せられると、時々どうしようもなく辛くなる。 「そんな時、天音のそばにはいられないの。天音はわたしには眩しすぎて、真っ直ぐ見れない……天音の真っ直ぐな視線が、わたしの醜い感情を見透かしちゃうようで……怖くて。天音のことが大好きだから、会いたいしそばにいたいけど、それと同じくらい会いたくないし、そばにいたくないって思う時もある」  中学の時から、あの二人の噂は絶えることがない。比呂はともかく、鈴花は天音が中学の時から比呂に想いを寄せていることを知っている。天音から、泣きながら真剣に告白されたこともある。その時の激情は、未だ鈴花の内から不意に現れて二人から目を逸らそうとする。 「……ごめんなさい。優依くんに話すことじゃなかったわ。忘れて……」  潤んだ大きな瞳が、それでもしっかりと優依を見据えて切なく微笑む。優依は何も返してあげる言葉が見つからず、ただ黙って鈴花の目尻に溜まった涙を拭い取った。  クラリーチェはラルスに会いたくて会いたくて、ただ無事だけを願っていた。好きだから会いたくないなんて、相反する感情が同時に存在することに、優依は少なからず衝撃を受けていた。

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