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第14話
可憐な赤い唇を噛み締め、大きな目に涙の膜を張った鈴花は、それでも時を置いて弓道場へと降りて行った。優依は彼女の登場を遠くから見守り、愛くるしい笑顔を見せる鈴花に目を細める。
弓道着を纏う凛々しい桐生天音の隣で、彼女は大輪の花のように美しく微笑む。その眼差しは穏やかで優しく、うっとりするほど可憐だ。そばにいるのが辛いと、涙ぐんでいた姿の片鱗さえ見えない。天音と比呂が顔を寄せて会話する様子にさえ、向ける視線に変わりがない。彼女の心情を知るのは、おそらく優依だけだろう。
秘する思慕は、クラリーチェを思わせる。焦がれて身をやつし、それでも想うことを止められない。触れることも、視線さえ合うことのない英雄に、恋い焦がれた。
クラリーチェは、鈴花と同じ立場でもラルスに微笑んだだろうか。
秘すれども、クラリーチェの中にあるのは激しい恋情だ。鈴花のそれとは本質的に異なる。
「……確かに眼福だよなぁ」
天音と鈴花。凛とした白皙の美貌の麗人と、ふわふわとした可憐で愛らしい砂糖菓子のような美少女。揃って立っていれば、それだけで絵になる。
巡っていた思考とは関係なく、思わず言葉が漏れた。
「だよね!」
完全な独り言だったか、思いがけずそれに返答があった。
背後からするりと腹に手が回り、背中にぺたりと暖かな体温がくっついた。
「優依もそう思うよね!」
あの二人は一見の価値があるよね、と優依の二の腕の辺りから顔を出して笑ったのは旭だ。
どうやら補習が終わり、急いでここまで来たようだ。後ろから優依に抱き着く旭の鼓動が速い。
「もう始まってるぞ」
小柄な旭が抱き着くのを好きにさせたまま、優依は顎を引いて視線を落とす。身長差を考えれば、旭は優依から離れた方がよっぽど眼下が見やすい。だが小動物のように戯れたまま優依にくっ付き、旭は弓道場に目線を向ける。
白皙の麗人・桐生天音と可憐な大輪の花・佐久間鈴花のツーショットだけならず、そのそばには我らが生徒会長弥勒比呂の姿もある。
二輪の佳麗な花に霞むことない存在感に、旭の口から思わず溜め息が漏れる。
「やっぱり会長はカッコイイよねぇ……」
ぽぉっとするような惚けた声は、次の瞬間はっとしてカチリと強張る。最近の優依に生徒会長・弥勒比呂は禁句ではないが、旭は初日の刷り込みが顕著だ。
体越しに旭が強張ったのを感じ、優依は弓道場に視線を下ろしたままかすかに笑う。
「そうだな……」
あの顔を見て、思うところがないわけではない。一般的に見て、あの男の顔立ちは確かに男前なのだ。
素直な肯定に旭は目を瞬き、覗き込むように下から優依の顔を見る。
今まで優依が比呂の話に素直に頷いたことがないから、この反応は当然かもしれない。
心境の変化を問いかける旭の視線を、優依は苦笑して受け止めた。明確な心境の変化などない。ただ、自覚の有無だ。
「旭、弓道には興味ないんだろう?」
旭の関心を他に向けさせようと優依は弓道場を指差し、生徒会長の挨拶は終わったようだがまだ見学をするつもりなのかと問いかける。
旭は来たばかりかもしれないが、優依はこの場所に来て随分と経つ。弓道自体を見学する気がないのなら、帰ってもいいだろうか。
問いかけに旭は優依に抱き着く力を強くして拒否を示し、窓から身を乗り出す。
生徒会長の挨拶は終わったかもしれないが、会長の挨拶など旭にはついででしかない。本命は副会長桐生天音の凛とした袴姿だ。彼女が出るのならば、旭の目的はまだ達成されていない。
俄然やる気の旭に、優依は当分帰れないことを知る。嘆息するも、付き合うと約束した手前もあるし、旭が楽しそうならいいか、とも思う。
優依に引っ付いたままの旭の顔が楽しそうに輝いている。
だが突然パッと、優依の腹に巻き付いていた旭の両手が離れた。自然に離したのではなく、反射で離しましたと言わんばかりに、旭は諸手を上げている。
「旭?」
突然のそれにどうしたのだと訝しむと、旭は真顔で呟いた。
「会長に睨まれた……」
優依が何も言わないのを良いことにずっとくっついていたものだから、生徒会長様の癇に障ったようだ。
気分を害させたと、旭の小柄な体がしゅんと小さく項垂れる。
優依はちらりと弓道場を見て、それから首を傾げた。
「……ここにいるのわからないだろ?」
遠い距離ではない。だが、上から見下ろすのと違い、下から見上げることはなかなかない。まして弓道場を真横から見下ろしている優依たちの位置を、道場内にいる比呂が認識している確率は低い。
分析に、旭の軽い溜め息が落ちる。
「ここから見えるってことは、向こうからも見えるってことだよ、優依」
顔を上げた生徒会長の視界に入るのは、弓道部員と周囲に集める観客たちだ。注目の的である比呂の視線が、ふと上がってこの空き教室を捉えてもなんら不思議はない。
比呂はここに、優依がいることを知っている。戯れつくように優依に抱き着く旭の姿は、比呂から見てさぞ面白くない光景だろう。
確信に頷く旭に、優依は苦笑する。
「あいつそこまで馬鹿じゃないだろ」
旭と同室であることも、同じクラスであることも比呂は知っている。多少のスキンシップなど、共有する時間が多くなれば増すものだ。それを癇に思うほどバカな男ではあるまい。
少し前、本人を前にして馬鹿呼ばわりしたことを棚に上げ、優依はそう呟く。
だが旭が呆れたように、したり顔でふるふると首を左右に振る。
「恋する男はみんな馬鹿なもんだよ、優依」
それはあの生徒会長様も例外ではあるまい。彼の優依への執心ぶりは、全校生徒が知っている。そばにいる旭や柊平にあからさまに嫉妬の目が向けられないのは、彼の自制心の賜物だろう。だがうっかり目に入ってしまった優依に纏わりつく旭に、反射的に現れた嫉妬心は隠しようがなかったのだろう。
窓辺に椅子を置き、桟に頬杖をついた優依は旭の力説をぼんやり耳にする。
弓道場は練習風景に変わり、生徒会長と書記の二人は副会長の練習を見守るようだ。正座して控える比呂の隣に鈴花が座り、天音がそのそばでかけをつける。
「その理屈で言うと、俺はあの男の両脇の花に嫉妬しなきゃいけないってことじゃないのか……?」
いずれも見劣りしない、麗しい花を常に両手に添える男。旭の言う通りなら、優依はあの佳麗な二輪の花に嫉妬の目を向けなくてはならない。
ぼんやりとしたまま口にして、優依ははっとした。
今のは完璧に失言だ。
顔を向けると、旭が目的の二輪の花そっちのけで爛々と目を輝かせていた。
「なに、今の!? 聞き捨てならないセリフだったんだけど!?」
胸倉を掴む勢いで迫る旭に押され、優依はガタガタと音を立てて後ろに下がる。だが目をキラキラ輝かせて迫る旭が怯むことはなく、完全にのしかかられる形で優依は床に尻を着いた。
「落ち着け、旭」
「落ち着けないよ! 何それ、いつから!?」
優依が生徒会長を毛嫌いしているのは周知の事実だ。刷り込みが激しい旭など、優依の態度が緩和されていると知る今でもその名前を出すのを躊躇う。そんな優依から嫉妬の二文字が飛び出したのだ。落ち着いていられるはずがない。
驚愕と、それを勝る好奇心を詰め込んだ旭の目が輝かしい。
「……旭」
優依は自分の上に乗っかる小柄な同級生の勢いに押され、どう返答すべきなのか迷う。
ラルス・ライルの魂を持つと知りながら、それでも弥勒比呂と言う個性を嫌いになれない。自分の隣に立つ比呂を、好ましいと思う。伸ばされる手を、心地いいと思う。
比呂が向ける想いと、優依が真正面から向き合って見たい。
時折覚える後ろめたさを加味したとしても、あの男のそばにいるのは嫌いではない。むしろ心地よくて好きだ。おそらくは、弥勒比呂と言う男に出会った時から惹かれずにはいられなかったのだ。
それが恋情であると言うのならば、優依は否定しない。優依は比呂が好きなのだ。
だがクラリーチェが胸に宿す炎のような激しさは、優依の中にはない。二輪の佳麗な花を見ても何も思わないのは、根本的に抱く想いが違うからかもしれない。
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