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第15話

 カタンと椅子が鳴って、優依はぼんやりと意識を戻した。周囲は薄暗く、少し肌寒い。何度か瞬きして顔を上げ、目の前に秀麗な男の顔を見る。  はっとした男がぱっと諸手を挙げ、優依から離れる。 「……さ、触ったが、襲ってはないぞ!」  起き抜けのぼんやりとした思考のまま男をじーっと見つみた優依に、比呂が告解するように叫んだ。  比呂のよく通る声に耳を刺激され、優依はようやく頭をまともに働かせる。纏わりつく眠気を振り払うように頭を軽く振り、席を立つ。 「お前の中で何か違いがあるのか、その言い訳」  ぐっと伸びをして容赦なく切り捨て、周囲を見渡す。 「……旭は?」  弓道場そっちのけで話を聞きたがる旭の猛追を無視するため、机に突っ伏したことまでは覚えている。諦めた旭の関心が、二輪の佳麗な花に戻ったことも、耳に届く感嘆の溜め息で覚えている。だが練習がいつ終わり、旭が何故いないのかさっぱり記憶がない。  知っているだろうと顔を向けると、さらに弁明を重ねようとしていた比呂の顔があからさまにほっと緩む。 「優依がなかなか起きなくて困っていたからな。俺が責任もって送るからと、先に帰ってもらった」  練習は終わったものの、すっかり寝入ってしまった優依に、旭は困っていたようだ。優依をこのまま教室に一人残しておくわけにもいかず途方に暮れていたところへ、比呂はタイミングよく現れたらしい。  会長が気軽に優依を見ていると言うので、旭は何も考えなかったのだろう。眠る優依の前に、比呂を置いておく危険性を。 「ふーん、……で、お前は? 何でここに来たんだ?」  眠る優依を一人にしないために残っていたことはいい。だがその前に、何か用があってわざわざこの教室に訪れたのだろう。  尋ねると、比呂はひどくバツが悪そうな顔した。口にすることを躊躇うように、薄い唇を何度も舐める。 「……弓道場から見えたから、な……」  迷うように出て来た言葉に、優依は比呂を見る。 「望月に、謝罪もしときたかったし……」  居心地悪そうに顔を歪めて話す男が、かすかに色付いて見えた。 (あぁ、本当に見えてたのか……)  旭の言葉を疑っていたわけではないが、この男が旭に敵意を向けることにいまいち実感が持てなかった。  だが謝罪する必要があるのは、優依に纏わり付く旭を睨んだ自覚が比呂にあるからだ。旭と個人的に関わりがあるはずがないので、比呂の戒告は旭の話を裏付けるものとなった。  不意に、さっきまで話していた旭の声が耳に蘇る。 ―――そんなの当たり前だよ、優依  常にそばにいる二輪の佳麗な花を見て嫉妬しないのは、優依が抱える想いが比呂とは重ならないからだ。  そう分析する優依に、旭があっけらかんと笑った。 ―――だって優依は、会長が優依のこと好きってちゃんと知ってるじゃん ―――嫉妬する必要なんて、優依にはないだろ?    優依は初めから、比呂が誰を想っているか知っているはずだ。それを理解しているから、比呂がどんな可憐な花たちのそばにいようと、思うところがない。  簡単なことだよと、疑いようがない言動を取る比呂を褒め称えた旭の顔が笑顔で輝いていた。  ならば。  優依は改めて目の前の男を見つめる。  ひどく居心地が悪そうな、なんとも言えない顔をした男がいる。  この男にこんな顔をさせているのは、他ならぬ優依だと言うことか。 「優依……」  決まり悪そうに顔を歪めた比呂が、言葉を探すように優依の名を呼ぶ。  優依を呼ぶこの声を、心地いいと思う。自分の名前がこれほど面映く感じる。胸にぽっと明かりが灯って、じわじわと暖かな熱が内側から広がっていく。甘く痺れるように、チリチリと胸が鳴って指先が冷える。 (……あぁ、同じだな……)  この暖かさは、クラリーチェがラルスを想う時に灯るものと同じだ。  甘く痺れるような熱は、クラリーチェが胸を焦がしてラルスを見つめる時と同じだ。  優依の中にも、恋情に身をやつすクラリーチェと同じ感情が確かにある。  そう自覚すると、情けない顔をして言葉を探すこの男が、言いようがなく愛おしいと思えた。  優依は自身を落ち着けるように一つ吐息を落とし、言葉を発しかけた比呂を遮るように口を開いた。 「俺はお前が好きだよ、比呂」  言葉を探して何かを紡ごうとした比呂の唇が止まり、そのままの姿勢で全ての動きが止まった。ただ驚愕に、大きく目が見開かれていく。  優依はそれを見つめたまま、自身の言葉を肯定するように一つ頷く。  好きだと、推定ではななく断定したのは、自分に音で聞かせるためだ。  言葉に出してみて、音にして耳に入れて、改めて自覚したのだ。抵抗することなくするり胸に落ち着いた、偽らざるこの感情を。  いつだって真っ直ぐと優依を映す瞳を、好ましいと思う。蕩けるような笑顔を向ける先に、優依がいることを面映く思う。馬鹿みたいに真摯に、あの泉を守る男の一途さに感嘆する。  弥勒比呂と言う一つの個性を、愛おしいと思うのだ。それに気付いた今、無理矢理それを否定しようとは思わない。  虚を突かれた比呂の手が、紡ぐ言葉も忘れて優依に伸びる。  優依はそれに目を細め、黙って受け入れた。 「優依っ……!!」  万感の想いで優依を抱き締めた比呂の声は微かに震え、それでもかき抱く力は例えようもなく強かった。  優依は応えるように強く抱き返し、顔を上げる。  間近に見る瞳は優依を真っ直ぐと映し、真摯な眼差しの奥に確かな熱を孕ませる。  示し合わせたように引き合って、唇が重なる。 「……っん……ぁ……」  ちゅっと軽く触れたそれは、すぐに深いものへと変わった。  舌を絡めて擦り、唾液を絡めて吸い付いつき、お互いを埋めるように深く。 「ぁ……ふっ……んっ……」  軽く息を上げて唇を解くと、絡み合った唾液がてらりとお互いの唇を濡らす。 「優依……好きだ……」  囁やく耳に心地のいい声に、優依は噛み締めるように強く瞳を閉じた。背中に回した腕に力を込めて一度ぎゅっと抱き締めてから、優依は覚悟を決めてその胸を突き放すように軽く押した。 数歩後退して出来だ距離に、比呂の柳眉がいぶかしげに顰められる。 「優依?」  離れた温もりに寂しさを覚えた比呂の手が追いかけて来るが、優依はそれに笑いかけながらもさらに一歩下がる。 「俺は、お前が好きだよ」  顔を伏せ、もう一度噛み締めるように告白する。  この男が好きだ。狂おしいまでに激しく燃え上がる炎の激情ではない。ただ柔らかくゆったりと燃え続ける灯のような炎だ。クラリーチェがただ遠くからラルスを見つめ続けるだけで得られていた甘い痺れと同じ恋情だ。  優依は確かにこの男が好きだ。他の誰とも違う、特別な想いを抱いて愛おしく思う。  それは、否定しない。  それでも。  顔を上げた優依の瞳に、明確な決意が宿る。 「俺はラルスが許せない」  真っ直ぐと比呂の目を見つめて、優依は言い切った。  比呂を想うことと、ラルス・ライルを嫌うことは、二律背反なことかもしれない。それでも優依の中から、ラルスに対する真っ赤に染まって煮えたぎるような怒りは消えることはない。  激しい怒りの感情を含ませながらも、優依の口調はどこか超然として淡々としていた。先の甘やかで暖かなものの一切がかき消え、優依の瞳には鋭い眼差しが戻る。  歓喜に染まった比呂の表情が一転して悲愴に染まり、形の良い唇が何かを耐えるように噛み締められる。  ぐっと白くなるほど握り締め拳に、優依は密かに胸を痛めて苦笑する。  比呂はラルスが世界を手にかけた理由を、優依に語ることはないだろう。  優依はそれを知る故に、比呂に歩み寄ることはしない。  伏せられる瞳に寂しさを感じながら、優依は比呂の脇を通り過ぎる。 「優依っ!」  咄嗟に比呂の手が二の腕を掴まえるが、優依はそれを柔い力で振り解いた。 「一人で戻る。ついてこなくていい」  きっぱりとした拒絶に比呂は盛大に顔を歪め、優依はそれから目を逸らして教室のドアへと向かった。  この胸の痛みは、クラリーチェが抱くものではない。優依が抱く痛みだ。比呂の傷付いた顔を見たくないと思うのも、優依が比呂を想うからだ。  でも振り返ることは出来なくて、優依は黙ってドアを閉めた。  ピシャリ、と拒絶して閉まったドアに、比呂は項垂れたままその場に蹲み込んだ。  頭を抱え、きつく目を閉じる。 (クラリーチェ……!)  儚く夢のように美しい、レオ・コルニウス神殿秘蔵の巫女。一目見た時から心奪われ、彼女のためにも一日でも早く世界を是正しようと心に誓った。  それなのに。  比呂は拳を握り、唇を噛み締める。  ようやく、出会えた。  クラリーチェ・ファルクの魂を持つ者に。  創世神レグルスによる粛清か、慈愛の女神ミュフィアの救済か、遠い異世界に魂を飛ばされて生まれ変わった。争いとは縁遠い、英雄として生きる必要もない世界だ。  創世神レグルスは、ラルスとクラリーチェの邂逅を許してはいないのかもしれない。だからラルスの魂は遠く異世界に送られ、クラリーチェの魂はあの世界に留まり続けているのかもしれない。そう思う日々の中で、それでもクラリーチェを探すことをやめられなかった。いつか出会えるはずだと、信じていた。  優依を初めて見た時、クラリーチェの魂を持つと知った時、どれだけ歓喜に震えか。希求した魂を持つ者にようやく巡り会えたのだ。  簡単に優依を諦めることが出来るはずがない。  優依の、諦めと覚悟を持った瞳を思い出す。比呂を好きだと言った唇で、ラルスに憎悪を叩きつける。  優依が知りたいことを比呂がつまびらかにすれば、あの唇は何を紡ぐだろうか。火のついたような真っ直ぐな瞳は、比呂をどう映すだろうか。  その時比呂の中のラルスは、何を思うだろうか。 「ふっ」  ありもしない想像に、思わず愉悦が漏れた。  力を入れすぎて強張った拳を解き、顔を上げる。  比呂が優依に、真実を語ることは絶対にない。それは比呂が唯一絶対に誓ったことだ。それにより優依がどれだけ不信感を抱いても、どれだけ怒りを募らせても。二度と比呂を見ることがなくなっても、決して。  譲れないのは、こちらも同じ。 「クラリーチェ、君の存在が今でも俺を悩ませる……」  そう、忌々しいほどに。  儚く美しい巫女を思い出し、比呂は自嘲的に呟いた。

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