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第17話
―――自分のことはよく見えなくよ
―――やるべきことを取り上げられたら、俺は何のためにいるんだよ
―――……優依には関係ないことだ
―――いるだけで何にも出来ないって、その内周りから煙たがられるよね
―――あぁ、言ってるのとはわかる
―――ダメだって知っててもね
―――ひーくんのこと、好き?
―――それを知って、お前はどうする?
―――足元から世界が崩れていくような気がして……頭が真っ白になった……
―――そこにいて何もしないのは、自分の居場所がないのと同じだからな
ガンガンと頭が鳴っている。頭の中で複数の声が声高に叫んでいて、自分がどこにいて何をしているのか、思考がまったくまとまらない。
優依は崩れ落ちそうになる体をなんとか支え、ふらふらと廊下を彷徨い外へと出る。
天気予報通りに、昼を過ぎてから厚い雲が空を覆い始めていた。黒く垂れ込める雲は、時を置かずして、とめどなく流れる涙のように雨を降らせるだろう。
「……っ……!」
グルグルと回る言葉たちが、暴力のように優依を打つ。優依は鞭打たれる罪人のようにふらふらと歩き、手付かずの自然を残す森へと足を踏み入れる。
無意識に向かった先は、かって好んでよく訪れたデア・マディスの泉を模した泉。女神ミュフィアが愛し、クラリーチェが魅了された神聖で尊い聖地。
遠くで雷鳴の轟が聞こえ、冷たい風がざわざわと木々を揺らす。だが美しく保たれる泉は目に痛いほど眩しく、優依の膝からかくりと力が抜けた。
―――そこにいる意義を取り上げられたのに、それでもそこにいろなんて、どんな拷問だよ……
呆然と泉を見つめる優依の瞳から、一筋涙が頬を伝った。
(わかった……)
何故出会ったことがある言葉たちが、暴力のように優依を打つのか。何故警鐘が頭痛となって優依を襲うのか。
ガンガンと鳴っていた頭痛がゆっくりと遠のき、思考が戻って来る。霧がかっていた記憶が鮮やかに蘇り、頭が冴えていく。
ようやく、繋がった。
見ようとして、見なかったもの。気付こうとして、気付かなかったもの。
何故彼が、世界を手にかけたのか。
ぽつりと、優依の頬に雨が当たった。すぐに雨は勢いを増し、美しいデア・マディスの泉を飛沫で覆い隠していく。
―――そんなに難しいことだったか!?
―――世界を壊すほどクラリーチェがお前に望んだことは難しいことだったかよ!?
初めて会った比呂に、激しく糾弾した言葉が今更優依の胸を鋭く刺す。
難しい、ことだったのだ。
激しさを増す雨に呼応するように、優依は嗚咽を噛みしめる。
クラリーチェが英雄ラルス・ライルに願った、たった一つのこと。
『幸せに。これからの道が、勇者様にとって恙無く幸せでありますように』
ただ、それだけのこと。それだけの願い。
だが、ただそれだけのことが、彼にとっては世界を壊すほど難しいものだったのだ。
彼は、世界から英雄となる運命を与えられた魂だ。その宿命に従い、彼は世界を正しくあるべき姿へと導いた。混乱を極め、不安に喘ぐ人々にとって、燦々と輝くように立ったラルスは希望そのものだった。荒廃した地に降り立つラルスを、どれほどの人が拝み、涙し、愛しただろう。
世界の行く末を左右するほど膨大な力を、ラルス・ライルという一個人が与えられていた。
だからこそ、彼は一度世界に還るべきだったのだ。過分な力は平定された世界に余計な争いを呼び込む種になりかねない。世界救済の英雄として、敬愛と羨望を集めてしまえば、後に残るのは彼に対する畏怖だけだ。
だから世界は、彼を英雄のままこの世から消そうとした。
過酷で壮大な運命を与えられて生まれる者は、生まれ落ちた時からその最期の瞬間までもが決められているものだ。そしてその宿命とは、必ず故あってのものだ。
ラルスが持つ宿命もまた、始まりから終わりまで定められたものだった。
それを、クラリーチェが無理矢理捻じ曲げた。
彼が世界から与えられている力は、それだけで世界の命運を左右する。彼はただ在るだけで、争いの種にもなり得たのだ。
平定された世界で、その力を有すかつての英雄に、いつしか人々は恐怖と嫌悪を抱くようになる。やがては、その過酷で壮大な運命を与えた世界さえもが、彼を不要のものとし、敵に回ることとなった。
生きる意義さえ取り上げられ、ラルスは世界でただ独りになったのだ。
だがクラリーチェの命で生かされる彼は死ぬことも許されず、ただ精神を壊し、やがて世界を破壊するしか術がなくなった。
ラルス・ライルが、世界を手にかけた理由。
(俺が、原因……)
激しさを増す雨に混じって、優依の頬を暖かいものがとめどなく流れ落ちる。
ずっと、知りたいと願っていた。ラルス・ライルがクラリーチェに生かされたその命で、世界を蹂躙した、その理由を。
知れて良かったはずなのに、涙が止まらなかった。
(比呂……!!)
ずぶ濡れのまま、顔を覆って嗚咽を噛み締める。ともすれば、叫び出してしまいそうだった。
優依を見て、蕩けるような笑顔を浮かべる。目が合うと、眩しいものを見るように目が細められる。見つめる瞳は、愛を囁くより雄弁に優依に語りかける。
―――優依
耳に木霊する心地よい低音は、あの男が発する音だからこそ柔らかく耳朶を打つのだ。
その比呂を、拒絶してまで知りたかったその理由なにの。
「くっ……!」
世界から存在する意義を取り上げ、世界を手にかける原因を作ったクラリーチェ。その魂を持つ、優依。
その優依を前にして、ラルス・ライルが怒りを覚えないはずがない。勝手に命を差し出しておいて、ラルスの世界を一方的に壊した。それでいて幸せに生きろなどと、独りよがりで自分勝手なことをラルスに要求する。クラリーチェの行為を、ラルスが許すはずがない。
優依がラルスを決して許せなかったように。比呂がクラリーチェを憎まないはずがない。
比呂が優依に、愛を囁くはずがない。
確かに比呂は、優依と巡り合って歓喜に震えただろう。探し回った魂との邂逅だっただろう。
クラリーチェの魂を持つ者を、打ちのめす絶好の機会を得たのだ。
「優依!!」
バシャバシャと、グズグズに濡れた大地を蹴って駆けてくる男の声があった。
優依はあまりな登場に唇を噛み締め、拳を握る。雨に打たれて濡れそぼった顔は、それでも頬に温かなものを流し続けている。
「優依! 何してる!?」
座り込んだ優依の肩を正面から掴み、比呂が蒼白になって叫ぶ。
雨音は激しく、同じようにびしょ濡れになった比呂の声は、大声でもなければ聞き取れなかった。
「どこにもいないって、大騒ぎになってるぞ!?」
探し回ったとわかる、息急き切った大声。傘もささず、雨に打たれたまま優依を探してここまで来たのだろう。
緩く顔を上げた優依は、両肩を掴む比呂の手を振り払って後退する。
湧き上がるこの怒りは、この悲しみは、この痛みは、この混乱は、どこにぶつければいいのか。
「……っ楽しかったか……?」
低く落ちたくぐもった声に、比呂の柳眉が寄る。
「優依?」
「楽しかったか!? 俺がお前に落ちるのを見るのは楽しかったか……!?」
雨音さえもかき消すような優依の絞り出すような大声に、比呂が瞠目する。
クラリーチェを許すはずがないラルス・ライルの魂を持つ比呂が、優依に今更愛を囁く理由。クラリーチェが愛した魂を持つ男だ。その男に真摯に愛を語られ、優依が惹かれないはずがない。前世からの繋がりでようやく成就した想いが、直後に手の平を返されて切り裂かれれば、優依はもとよりクラリーチェも傷付く。
ささやかながらも、効果的な復讐になることは想像に易い。
「俺が、憎かったかんだろう!? 俺がラルスを世界に独りきりにさせた! 英雄が、人々からも、世界からも! 誰からも居場所を与えられずにただ生かされたんだ!!」
さぞ、滑稽だっただろう。自身が世界を手にかけた要因であるのに、その理由を烈火の如く追求する。お前が許せないなどと、堂々と言い放って比呂を糾弾する。
比呂の目に、優依はいかに滑稽で忌々しく映っていたことだろうか。
睨め付ける赤い目に、比呂の顔色がさっと変わる。優依が何を怒り、何を叫んでいるのか瞬時に理解したのだ。
「違う!!」
大声で怒鳴り返した比呂が、一歩優依に近付く。だが優依はさらに後ろに下がり、何も何も聞きたくないと首を振る。
「優依!」
「黙れ!」
全てを知った優依を前に、今更何を弁解しようと言うのか。それともこれから語られる言葉は、優依を糾弾するためにあるのか。
何も聞かないと首を振る優依に、比呂が小さく舌打ちする。逃げる優依を追い詰めるように距離を詰め、腕を掴んだ。
「嫌だっ……!」
振り払おうと暴れる優依を無理矢理引き寄せ、視線さえ合わせようとしない優依の両頬を包んで、強引にこちらに向かせた。
「俺はお前を愛してる!!」
真っ直ぐと、逸らされることなく真摯に叫ばれた比呂の言葉。優依は一瞬全ての動きを止め、直向きで熱誠なる男の瞳に瞠目する。
ざぁぁっと、静寂に鳴る雨音が耳を刺す。
ぐっと噛み締めた唇から、嗚咽が漏れる。
「……ラルスが、世界を壊したのは俺のせいだ……!!」
ラルスのためだと思っていた。世界を正した英雄が、大義を果たして間もなく命を落とす。彼はもっと人々に評価されるべきである。彼ならば、世界のためにもっと尽力出来る。彼は死ぬべきではない人物なのだ。
だからクラリーチェは、迷うことをしなかった。
それなのに。
雨と涙で濡れたまま、優依の顔が悲愴に歪む。
比呂はたまらなくて、優依を強く抱きしめて声を絞り出す。
「……ラルスを壊したのは優依じゃない、クラリーチェだ……!」
間違えるなよ、と比呂の声が苦々しく響く。
だが優依は比呂の腕の中で白くなるほど強く拳を握る。
「同じだ……!!」
クラリーチェの魂を、優依が持っている。優依の中に、クラリーチェがいる。彼女の罪は、優依の罪だ。
比呂は一度目を閉じると、優依を抱きしめていた手を一度解いた。真っ赤に目を潤ませる優依の目尻に、そっと触れる。
「優依が、クラリーチェ自身じゃない。クラリーチェが犯した罪を、お前が贖う必要はない」
同じ魂を持っていようとも、前世としてその記憶を継ごうとも。優依はクラリーチェと同じ人物ではないのだ。獅堂優依としての個性を持つ、クラリーチェ・ファルクとは別の人物だ。
比呂は優依の瞳を覗き込んだまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「クラリーチェがラルスに何をしても、俺が優依を憎む理由にはならい。それでも優依が苦しむと言うのなら、俺はクラリーチェもラルスもいらない」
耳に心地いい低音で紡がれた言葉に、優依は大きく目を見開いた。
「な、に、言って、るんだ……?」
信じられないと呆然とする優依に、比呂が困ったように、それでもひどく男前に笑った。
「言っただろう? 俺は、お前を愛してるんだよ、優依」
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