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第18話
ラルス・ライルの記憶を正しく受け継ぐ比呂は、クラリーチェがラルスに何をしたのか知っている。記憶にある。だが、人々から嫌悪され、世界から拒絶され、少しずつ精神を壊していったその時の記憶だけはひどく曖昧だった。自我が瓦解していったのだ。意識は保っているようで、保たれていなかったのだろう。
だからと言う訳ではないが、ラルスの中にクラリーチェを怨むものはない。ラルスは確かにクラリーチェを愛していたのだ。愛する女からの贈り物に慟哭もしたが、歓喜もした。だが、想像以上に彼女の命は重かったのだ。予想外に、彼女の願いはラルスを打ちのめしたのだ。ただ、それだけだ。
比呂がクラリーチェを怨む理由はない。いや、思うところはある。だが、それが優依に及ぶものではない。
あの日、優依に想いを告げられ、はっきりと拒絶を突き付けられた時、覚悟を決めなければならないと思い至った。
優依にラルスが世界を壊した理由を語るわけにはいかない。比呂がどう思っていようと、かの英雄が世界を壊した要因はクラリーチェにある。優依が知るところとなれば、必ず傷付く。
優依はクラリーチェを至宝のように大切にしている。同一であると認識しながらも、彼女が起こす過ちを己の過ちとして語る。その時だけ、クラリーチェの名前を出さない。クラリーチェがラルスを想い外に飛び出して怪我をした時、責めたのは自身の名前だった。
優依に、クラリーチェの罪を背負わせるわけにはいかない。
ラルスのことでも、クラリーチェのことでも、優依が傷付つく謂れはない。遠い異世界の、戻れない過去にいつまでも囚われる必要はない。
比呂が出した結論は、実にシンプルだった。
比呂の中から、クラリーチェ・ファルクを消す。
ラルス・ライルが愛し、焦がれた美しい儚い巫女。比呂も何度記憶の中で彼女の美しい姿に見惚れただろう。彼女の微笑む姿を思い描いただろう。この腕に抱くことを願っただろう。
彼女を忘れることは、簡単ではない。比呂の中のラルスが、それを許さないからだ。だからまず、ラルスを捨てる。
ラルス・ライルとクラリーチェ・ファルク、彼ら二人は今の弥勒比呂を構成する一つの要素だ。比呂にとって大切なものに違いはない。それでも、最も何が重要で大切であるのか、大事にしたいものは何かと突き詰めていったら、優依に辿り着いた。
「クラリーチェのせいでお前が傷付くなら、俺はクラリーチェの思い出はいらない。どれだけでも悪者にしてやる。俺にとって、クラリーチェよりお前が大切なんだ、優依」
激しさの増す雨に、比呂は優依を連れて部屋まで戻って来た。優依は暴れもせずついて来たが、どこかまだ呆然としているようだった。比呂は優依を風呂場へ送り、自身は着替えて部屋の温度を上げる。肌寒いと言うほどの気温ではないが、長く雨に打たれて体温が下がっていた。
心配するほど長く風呂に入った優依が泣き腫らした目で出て来るのを迎え、髪を拭く。絨毯に座り込んで向かい合い、比呂は優依の頭を拭きながらゆっくりと語った後、そう言葉を紡いだ。
バスタオルの隙間から、泣き腫らした赤い目が比呂の目を見て一度ゆっくりと瞬きされる。
「……お前、本当に馬鹿だな……」
ふっと口元を緩めた優依に、比呂は柔らかく微笑んだ。
「お前にだけ馬鹿になるなら悪くないな」
水分を含んで重くなったバスタオルを落とし、まだしっとりと濡れる髪に手を滑らす。盆の窪を抱えてそっと抱き寄せると、優依の頭は抵抗せずに落ちてきた。
その比呂の腕の中で、優依が呟く。
「……それでも俺は、ラルスにしたことを許してはいけない……」
創世神レグルスに仕える、レオ・コルニウス神殿秘蔵の巫女、クラリーチェ・ファルク。彼女は神のために祈り、世界のために理を読む。その彼女が犯した罪は重い。贖っても贖いきないほどの、大罪だ。クラリーチェは、大綱に触れたのだ。
チカリ、と優依の頭が痛む。
瞬間的に顔をしかめた優依に、比呂がそっと耳元で声を落とした。
「優依。どれほどの罪だろうとも、それはお前が贖うべきものじゃない」
「でも……!」
「そもそも!」
納得せず、重ねて反論しようとする優依に、比呂はぱっと手を放して語気を強めた。
「俺は怒っても恨んでもない。あの世界の理から外れた俺たちに、今更どうやって罪を償えって言うんだ?」
あの世界の記憶はあれど、比呂も優依も今はただの人間だ。世界を左右するような英雄の力も、世界の理を読むような巫女の力もない。
罰が与えられたとしたら、以前いた世界とは遠く離れたこの世界に生み出されたことだと解釈してもいいだろう。
真っ赤に充血した優依の目が悔しさに滲むように揺れ、きゅっと唇が噛み締められる。
比呂の言う通り、この世界で優依があの世界に出来ることはない。祈りさえ届かないほど遠い異世界だ。
創世神レグルスに創り出された魂が、その御許から引き離された。それは、確かにクラリーチェが受ける罰かもしれない。
だがラルスは。
紡ごうとした言葉を、比呂が押し留める。
「ラルスに罪がないわけじゃない」
どんな経緯があったにせよ、ラルス・ライルが世界を蹂躙したのは事実だ。ラルスに咎がないはずがない。
穏やかに笑う比呂を、優依が見つめる。
「全てを忘れろって言ってるわけじゃないぞ? でも、ラルスもクラリーチェも、遠い世界の遠い記憶の中のものだ。過去に留まろうとするより、今の自分をちゃんと生きるべきだと思わないか?」
罰はきっと、受けた。創世神レグルスの御許から引き離されたと言う、魂の仕打ちだ。だからきっと、二人は過去を清算するためにいるのではない。
「優依のクラリーチェは、優依に罪を背負わせることを良しとしないだろう?」
柔らかく笑う比呂に、優依はぐっと唇を噛み締める。
優しい言葉を紡ぐ男がいる。傷付けられ、孤独と喪失感を与えた相手を前に、比呂の言葉はあまりにも優しい。罪悪感と自責に沈もうとする優依を、易々と引き上げようとする。振りほどいた手を、何度でも掴もうとする。
この手になら、引き上げられたいと思ってしまう。離すなと、自ら掴んでしまいたくなる。
潤んだ瞳に比呂が目を細め、優依の頬にそっと触れる。
「こうして、優依に出会えて触れられることを、俺は創世神レグルスと女神ミュフィアに感謝する」
あの世界の神々にどんな意図があったにせよ、同じ世界に生まれた。そして出会えた。これを感謝せずにいられるだろうか。
優依の泣き濡れた瞳から、また一筋涙が伝う。
「……っ……、俺も、……比呂、お前に会えたことを、女神ミュフィアに感謝する……」
他でもない、弥勒比呂と言う優しくて寛大な、でもとびきり馬鹿な個性に巡り合わせてくれた。この個性がなければ、きっと優依は救われなかった。救われようなどと、決して思わなかった。
比呂の背に手を回し、優依はようやくこの魂と邂逅出来たことを心から喜んだ。
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