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第19話
深く深く、深淵へと潜るように意識が沈んでいく。覗いたこともないようや深く暗い底へと引き込まれていく。
柔らかに降り立った地は暑さも寒さもなく、ただ静寂だけが横たわる。空気は淀んでいるわけでもなく、澄んでいるわけでもない。一切の変化がない深淵の闇の中だ。どれだけ目を凝らしても、慣れることがない。どれだけ耳をすませても、何も聞こえることがない。
否。
かすかに音が届いた。
それを頼りに、漆黒の闇の中を進む。本当に自分が進んでいるのか否かも不確かな暗闇の中を、それでも歩き続ける。
ふと足を止めたのは、遠くに目印のように灯りがあったからだ。その灯りに目を凝らし、思わず駆け出す。
「クラリーチェ!!」
ガンッとぶつかった目に見えない壁に、今一度叫ぶ。
「クラリーチェ!!」
放心したように座り込むクラリーチェがいる。美しく長い髪を地面に汚し、澄んだ目からとめどなく涙を流す。
その彼女の頭に、ふわりと触れる手があった。
「!?」
叩く手を止め、その白い繊手を凝視する。
それは、満天の星が瞬く新月の夜だった。清冽で神聖なデア・マディスの泉の前で、クラリーチェが傅く。その頭に触れるのは細くしなやかな手。
あれは誰―――?
『我がみどり児』
凛と鳴る、背筋が伸びる荘厳な声音。
デア・マディスの泉で、その巫女を跪かせる存在。
(―――女神ミュフィア!?)
泉から光が溢れ、眩いばかりの人形が形作られる。
『お願いです、女神さま……どうぞご慈悲を……!!』
眩い光に傅き、クラリーチェがはらはらと涙を流し懇願する。
儚く美しい巫女が涙を流し懇願する姿はあまりにも悲痛で、どんな願いでも聞いてしまいたくなる。
白い繊手がクラリーチェの頬を濡らす涙を拭う。
『我がみどり児、クラリーチェ。その無知なる願いの先に何が待つのか、想像することは難しいこと?』
荘厳な問いかけに、クラリーチェは目に涙を溜めたままふるふると柔く首を振る。首の動きに合わせて、涙の粒が宝石のように零れ落ちる。
『……わかりません……わたしは、ただ……』
それしか祈ることを知らないように、クラリーチェの両手は固く握られ女神に向いている。
女神の繊手が、涙を流すクラリーチェの頬に仕方なさそうに触れる。
『クラリーチェ、無知は罪じゃない。知ろうとしないことが罪なんだ』
慰めにも取れる女神の言葉に、クラリーチェの美しい瞳からまた一筋涙が頬を伝う。
この時、クラリーチェがその先にあるものを想像することが出来たのなら、悲劇がラルスを襲うことはなかった。世界が無用に蹂躙されることはなかった。
その光景を見ていられなくて、堪らずにそっと瞳を伏せる。だがすぐに、女神の凛とした声に顔を上げた。
『でもね、クラリーチェ』
繊手が傅くクラリーチェの頤を捕らえて上を向かせる。ぞっと腹の底から震えるような圧力が、眩い光の中から放たれる。存在そのものの格が違うのだとわかる、圧倒的な畏怖だ。
『世界の理を知り、読み解く力を与えられし我が父に仕えし親愛なる巫女よ』
腹に響くような女神の声に、ドクリと鼓動が大きく波打った。急に落ち着かなくなった心臓の早鐘に、無意識に胸元を握り締める。瞬きも出来ず、クラリーチェの冴え冴えとする美しい横顔を凝視する。
『知り得た事実に目を閉じ耳を塞ぎ、知らないふりをすることはもっと罪だよ、クラリーチェ』
蒼白になった可憐な唇が、きゅっと固く結ばれる。女神に祈るために固く組まれた両手に力が加えられ、折れそうなほど華奢な体が細かく震える。それでも、クラリーチェの視線が眩い光から逸らされることはなかった。
ふっと、女神から発せられていた圧倒的な畏怖が緩む。
『頑なに、決心は揺るがないのだね』
笑みさえ浮かぶような声に、クラリーチェの震える声が女神の名前を呟く。
女神さま、どうか、と。
ただそれだけを希う悲痛な声に、女神の手がクラリーチェから離れて眩い光の中へと戻っていく。
『世界は我々ではなく、人々の手に委ねられている。これは主の意思である。最終的に人が下す言動の是非を、ミュフィアは判じない』
ぱっと顔を上げたクラリーチェの目に、希望のような光が灯る。
『お別れだね、我がみどり児。主から与えられし使命は、崩れ落ちそうなほど重いものだったかい?』
『いいえ……いいえ……女神さま! わたしは主と女神ミュフィアさまにお仕え出来たことを、至上の喜びと思います』
涙ながらに話すクラリーチェの声に、消えゆく眩い光の中で女神が笑った気がした。
光の消えたデア・マディスの泉の前で一人になったクラリーチェの目には、強い決意が灯っていた。
跪いたクラリーチェから、決意を秘めた目をしたクラリーチェが抜け出して歩き出す。前を向いて暗闇に消えたクラリーチェと、泉の前で跪いたままのクラリーチェ。
目を瞬いていると、残されたクラリーチェがしっかりとした瞳でこちらを向いた。
「クラ、リーチェ……」
これは、優依が知ることがなかったクラリーチェの記憶だ。頑なに見ることがなかった、ラルスを助けると決意した日の記憶だ。
呆然と呟いた優依に、ひたと見つめるクラリーチェの透明な瞳から涙が溢れる。可憐な唇が慄くように震え、それでもか細い声を絞り出す。
「これが、わたしの真実……」
可憐なか細い告白に、優依の拳が白くなるほどきつく握り締められる。はらはらと、宝石のように煌めく涙を流すクラリーチェから目が逸らせない。
「……お願い、優依。わたしをここに置いていって……」
可憐な声が懇願すると、優依の体がふわりと浮いた。
「クラリーチェ!?」
はっとして叫ぶが、優依の体は重さを持たないようにゆっくりと深淵から浮き上がっていく。みるみる遠ざかっていく淡く光るクラリーチェの姿に、優依は必死で手を伸ばしてもがく。
「クラリーチェ!!」
見えない壁が壊された。今まで優依とクラリーチェを隔てていた齟齬が、これでなくなった。
優依の手は、クラリーチェに届く。
なのに引き離されていく体に、優依は懸命にクラリーチェの名前を呼び続けた。
「嫌だ、クラリーチェ!!」
置いてはいけない。こんな深淵の闇の底に独り、孤独に震え、泣き濡れるクラリーチェを放っておけるはずがない。
血を吐くような優依の声に、クラリーチェが深淵の底から泣き濡れた顔を向ける。
「お願い、優依……。わたしはあなたを傷付けるわ。彼とともにいるなら、尚更……」
胸を抉るようなクラリーチェの言葉に、優依の脳裏に比呂の柔らかな笑顔が浮かぶ。
一瞬息を呑み、瞠目した優依にクラリーチェが哀しく微笑む。
「わたしを探さないで……」
「クラリーチェ!!」
「嫌だ!!」
「優依!!」
叫び声とともに、はっと意識が戻った。
優依は比呂のベッドの上で飛び起き、大きく肩で息をさせたまま呆然とする。
隣にいた比呂が優依の体を抱き止め、心配そうに顔色を伺っていた。
「優依……大丈夫か?」
泣きすぎて熱を持ったままの優依の目からは、またとめどなく涙が溢れていた。
比呂の手が頬を包むように涙を拭い取り、間近に優依の瞳を覗き込む。
優依は耳に心地いい比呂の低音にゆっくりと顔を上げ、目の前の男を視界に映す。
慈しみと愛しみ、優しさと温かみ。
この男が向ける眼差しは、いつだって真っ直ぐだ。
臆面もなく向けられる愛念に、目頭が熱くなって胸が詰まった。
比呂の背に手を回して、強く抱き締める。
比呂は同じ強さで優依を抱き返し、先から止まることを知らない涙を流す瞳に口付ける。
慰めるように静かに落とされる唇に、優依は比呂の服をきつく握り締めた。
「……ってた……」
「優依……?」
嗚咽を噛み締めるように呟いた優依の言葉に、比呂の唇が額から離れる。
優依は比呂の胸に顔を埋め、くぐもった声で口を開く。
「……知ってた……クラリーチェは、……全部……、ラルスが、……どうなるか……知ってて、助けた……」
ラルスが世界救済の後、間もなく死すべき運命にあること。それを助ける術を、クラリーチェは見つけたこと。死神を騙して助けた後、ラルスが世界からどんな扱いを受けるのか、事の次第の全てを。
クラリーチェは知っていた。知っていて、ラルスを生かした。
耐えられなかったのだ。世界からラルスがいなくなることに。この時クラリーチェにとって、
ラルスは自身の一部であり、世界の全てだった。ラルスのいない世界に価値はなく、クラリーチェの祈りは創世神レグルスではなくラルスに捧げられていた。
最初はただ、ラルスを生かす術だけを求めていた。死神を騙す術にはすぐに辿り着き、クラリーチェは自身の魂と入れ替えることを思い付く。これでラルスは死なない。だがクラリーチェが安堵したのは、束の間だった。ふと思い至ってしまったのだ。
いつかラルスは、遠くない未来で、彼に相応しい美姫を隣に置くだろう。世界を救った若く凛々しい英雄。その輝かしい未来と共にあれる、クラリーチェではない誰か。
想像するだけで胸が抉られるように痛んだ。
ラルスがいない世界では生きられないクラリーチェ。でもラルスを生かした先にある未来も、耐えられるものではない。
嘆き悲しんだクラリーチェは、そうして知る。
英雄を生かすという大綱に触れることが、何を意味するのか。
『死んでほしくなかった……でも、誰かに笑いかける姿は、想像することさえ耐えられなかった……。だから、迷うことをしなかったの……』
クラリーチェの嗚咽を押し殺す告解が、優依の耳の奥に蘇る。
迷うことをしなかったのは、自分のため。自分の我を通すために、ラルスを世界に独りきりにさせた。穢れを知らないように無垢に笑って、地獄の道を行けと指し示した。
ラルスがこの後どうなるかと言う全てに目を閉じ耳を塞ぎ、知らないふりをした。
その頑なで揺るがない決心は、女神の誡告さえも届くことがなかった。
あの時クラリーチェの瞳に宿っていたのは、ラルスを想う故の決意ではない。自分を救うための決意だ。
「クラリーチェが、全部話してくれた……」
比呂の胸に顔を埋めたまま、優依は声を絞り出す。
クラリーチェの無知故に起こった悲しい結末なればこそ、許される余地があった。だが故意であり、意図して招かれた結果であるならば話は別だ。同じ結末でも、これは許されるものではない。
比呂に届けるべき言葉が出てこなくて、優依は唇を噛み締める。ごめんと詫びるだけでは、とうてい足りない。地に額を擦り付けて謝罪したとて、許されることではない。
背に手を回した手を強く握り締めると、比呂の抱き締める力が強くなる。
「あぁ……やっぱりそうか……」
優依の頭を抱えた比呂の声が、ひどく落ち着いて落とされた。
優依ははっとして涙で濡れた瞳を上げ、唇を噛み締める。
比呂は固く結ばれてしまった優依の唇に触れ、困ったように笑う。
「……実は、その可能性もあるんじゃないかって、ここ数日考えてた……」
少し言いにくそうに告げた比呂に、優依の濡れた瞳が大きく見開かれる。
「……クラリーチェが、知ってたって……わかって、た……のか……?」
「いや……ラルスじゃなくて、俺がな……」
信じられないと目を見開く優依に、比呂は苦笑する。
可能性を突き詰めていけば、誰でも辿り着ける。クラリーチェはレオ・コルニウス神殿の秘蔵の巫女だ。世界の理を読む力を与えられた彼女に、理を外れる代償が見えていないはずがないのだ。大綱に触れることがいかなることか、誰よりも熟知しているはずなのだ。
だから、もしかしたらクラリーチェは、ラルスの結末を読めていて、あえて助けたのかもしれない。
「なんで……」
何故そう帰着するのか、思考回路が理解出来ないと言う優依に、比呂は思わず笑う。
「優依もラルスも、クラリーチェには盲目的だからな」
だから比呂も、数日前まで考えなかった。思いも至らなかった。優依を中心にして、ようやく気付いた。クラリーチェ・ファルクを一歩退いて、客観的に見ることが出来て初めて辿り着いた。
そうなんでもないことを語るように笑う比呂に、優依はくしゃりと顔を歪めた。
「……お前……本当に、他人事みたいに話すな……」
もっと怒ってもいいし、衝撃を受けてもいいはずだ。優依をなじってもおかしくないのだ。だが比呂は柔らかく笑って、優依の涙を拭う。
「まぁ、俺が実際に体験したわけじゃないからな、他人事にもなるさ。昔の俺の、遠い過去のことだと思えば、真実がどうだろうと、今更問題にすることもないって思わないか?」
誰かを恨んで解決する問題でもないし、当事者であるラルスも、その記憶を受け継ぐ比呂も、恨む気などさらさらない。あまりにも遠くの記憶すぎて、充分時効が成立するくらいだ。
拍子抜けするほどあっけらかんと話す比呂に、優依は目を瞬いて鼻をすする。
嗚咽に喉を震わせ、鼻が詰まるほど泣いて、胸が抉られるほど自責する自分が、少し馬鹿らしく思えてきた。
それくらい、比呂の態度が軽い。
優依は震える手で比呂の手を掴み、両手で握る。
この手を掴み、そのそばにいることを願うのならば、クラリーチェは深淵に沈めておけと言う。クラリーチェそのものが、罪として優依を苛むからだ。傷付けようとするからだ。
でも、そんな必要はないのだ。目の前のこの男は、何もかもを引き上げてくれる。優依の自責も悔恨も、クラリーチェの罪咎も、全て。わかった上で、手を伸ばして掬い上げてくれる。
「比呂……クラリーチェが、泣いてるんだ……ずっと、独りで泣いてる……今も……」
優依から離れて、独りでいようとするクラリーチェ。あのままでは、優依は救われてもクラリーチェは永遠に悲しみと後悔の嵐の中に独りでいることになる。
「助けに、行かないと……。俺しか、クラリーチェを救えない。助けてやれない……! だから……!」
涙声が真摯に紡ぐ懇願に、比呂は優依の手を強く握り返して頷く。
「あぁ、クラリーチェを独りにするな」
彼女と離れてしまっては、優依の一部が欠けてしまう。彼女があればこそ、今の優依がある。優依が至宝のように大切にしている彼女は、きっと優依の核を成すものだ。
涙腺が壊れ、簡単なことで涙を滲ませる優依に比呂が口付ける。
「それで、戻ったらそろそろ笑ってくれよ」
泣き顔は充分堪能したからな、と比呂の顔が悪戯っぽく笑いかける。
優依は吹き出すように笑うと、応えるように意地悪く笑う男に唇を重ねた。
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