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#3 カイトとダリ
身体がずっと熱い。
血が煮えているようだ。
ボコボコと沸いた溶岩のような血が、肉と皮で出来た袋の内側で暴れ狂いながら、噴火のときを待っている。得体の知れない、味わったことのない熱さだった。
陽の光を遮断した部屋で恐る恐る目を開ければ、ごわごわとした硬い毛皮に覆われた手が一対。おぞましいそれが、自分の意思で寸分の狂いもなく動かせる、そのことに何百回目かわからない絶望をする。
自分の家だったはずの空間が酷く狭く感じた。冷蔵庫から腐った臭いがする。ここ何日かは何も口にしていない。このまま飢え死んでしまいたいような気もするのに、蛇口から出てくるカルキ臭い水を、身体の熱さに耐えきれず飲んでしまう。
それでも焼けるように乾いた喉が潤わないのだ。
何度も頭を掻き毟った。靴が履けなくなりシャツもズボンも破れた。露わになった肌を覆う黒くて獣臭い毛を引き千切った。尖った爪に血がこびりついて、裂かれる痛みもあって、紛れもなく自分の身体なのだとわかって、そのたび吐いた。涙が溢れてさらに喉が乾いた。
熱い。
痛い。
伏せたままぼんやりと開けた視界に、白い破片が浮かび上がる。
棚の上に大切にペーパーウエイトを乗せていたはずの封筒が、中身ごと八つ裂きになって床に散っている。
明日はダリの結婚式のはずだった。
でも、わからない。閉め切った部屋と朦朧とする意識。日にちを正しく数えられている自信がない。もしかしたら昨日だったかもしれないし、明後日かもしれない。
いずれにしてもこれだけははっきりしている。
こんな姿で、こんな状態で、結婚式には出られない。
それを思うときだけは、欠席の口実ができてよかったという気持ちも生まれた。
なんて不誠実な男だ、僕は。ダリは大切な友人なのに。
カーテンを閉め切っても、隙間から細く差し込んでしまう光で朝を知った。
家に閉じこもったこの数日間、何度か外から扉を叩かれ、声をかけられた。
小鳥の羽音が聞こえるほどに鋭くなった聴覚は、声の持ち主を正確に聞き分けた。
誰が来たとしても開けるつもりはなかった。開けられるはずがなかった。
嗚咽以外の声もしばらく発していない。
今の自分が言葉を話せるのかさえ、僕にはわからなかった。
暗闇と熱と絶望だけが身の内外にひしめく中、僕はついに何よりも恐れていた音を聴く。
「ーーカイト、いるのか?」
控えめなノックに続いて、僕の名前を呼ぶ声。
とても懐かしく、尊いものに感じた。春の泉のように澄んで暖かな水色の声だ。
「カイト。俺だ、ダリだよ」
名乗らなくたってわかる。ダリの声を間違えるはずがない。その当たり前のことを実感したとき、僕は少しだけ、ほんの少しだけ僕に戻った気がした。
「いるなら開けてくれ。お前の姿が見えないって、みんな心配してる」
何度も扉を叩きながら、優しい声が続く。
それにふらふらと釣られるように僕は、気づけば戸口に近づいていた。
ドアノブに手を伸ばしかけて、視界に映った自分の手にぎょっと跳ね退く。
おぞましい。
異形でしかない。
こんな姿をダリに見せられるわけがない。
おろおろと後ずさった足が椅子を蹴飛ばした。ガタン、と音が響いて、ノックの音が止まった。「カイト、そこにいるんだな?」とダリが少し声を強める。
「なあ……どうしたんだよ。何があった? 俺にも言えないようなことか?」
僕がここにいると確信して、ダリの口調が語りかけるようなものに変わる。
幼い頃からの親友のダリに、秘密なんてひとつしか持ったことはなかった。
「言いたくないならそれでもいい。せめて顔を見せてくれ。俺を安心させてくれよ」
ダリの声を聞いているうち、煮え滾るようだった血脈が心なしか安らいでいく。トクン、と幾分か人間らしい音で、心臓が鼓動した気がする。
ダリは依然として扉の向こうから僕を呼び続けた。
「頼むよ……カイト」
声が微かに震えている。辛そうな顔が目に浮かぶようだった。他でもない自分がそんな顔をさせていることに、毛むくじゃらの胸が痛んだ。
ダリ。この姿を見て、受け入れてくれるだろうか?
もちろん驚くだろうし、怖がられるだろう。でも、ダリなら。
拒絶せずにいてくれるかもしれない。
優しい言葉をくれるかもしれない。
あまりにも都合のいい妄想だと思った。
そして、もしもそれを裏切られても、それでもいいと思えた。
ダリに拒絶されたら、きっとなんの未練もなく、すぐに死ねる。
重い足を鈍く動かして、再び扉の前に立った。
厚く硬くなった指先の皮膚。内鍵を摘み、束の間躊躇って、それから捻る。
カチャ、と金属音が響いた。
自分から扉を開ける勇気はどうしても出ずに、一歩後ろへ下がる。少しの間があって、ゆっくりとドアノブが回った。
扉が引かれ、外の光を背に、ダリの金色の髪が覗く。
永遠にも感じられるような数秒間だった。
僕は久しい眩しさに目を細める。
醜い姿が太陽のもとに晒される。
会いたかった人の顔が強張った。
「ーーカイトなのか?」
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