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#2-4
さらに三日が経った。
感染者は一名死に、一名が今朝から急激に衰弱を始めた。明日の朝にはジキルを入れて残り四名になる。
感染二十日目となるジキルの獣化は、相変わらずほとんど進んでいない。
「そういや、その丸眼鏡は必要あるのか? 獣化の初期段階で視力は良くなるはずだろ」
クレアしか使っていないシャワー室をメイが掃除している間、クレアはコンクリートの壁にもたれて立ったまま、独房内のジキルと言葉を交わしていた。
「ああ、目は前よりよく見えるようになったよ。眼鏡はなくても平気だ」
「じゃあどうして掛け続けてんだ」
「よく見えすぎて落ち着かなくてね。眼鏡で少しぼやけると、ちょうど前と同じくらいの視界になるんだ」
視力だけではない。聴覚や嗅覚も急発達するので、うるさくて眠れないだとか、寝台に染みついた他人の臭いが不快だとか言い出す者もいた。
その点ジキルはさほど神経質なたちではないらしい。与えられた環境に文句を言ったことは、クレアの知る限り一度もなかった。
「ときに看守さん、私は思うところがあるんだがね」
「看守じゃねえ。何だ」
「私の獣化について、なんだが」
世間話のようなトーンでジキルが言うと、しかし、クレアは眉を跳ね上げて身構えた。
寝台に腰掛けたジキルの悠々と組まれた両脚は、被毛に覆われ皮膚も硬化しているものの、まだ靴を履いている。獣化が進むと、足が変形し靴が履けなくなるのだ。平均して十三日目ほどで。
「私はこう考えてるんだ」
件の丸眼鏡を鋭い爪で少し持ち上げ、ジキルは続けた。
「オメガが発するフェロモンに、この病気に対抗する物質が含まれているんじゃないか」
オメガ特有のフェロモンはアルファにのみ作用する。その点で獣人病と同じだ。そこに獣人病治療の鍵があるのではないか。
「つまり、その……なんだ」
突然言い淀み、目を泳がせ始めたジキルに、クレアは訝しげな視線を向けた。
「私が……あー、あの子とだな、そのぅ……」
「夜な夜なセックスしてんのが獣人病の進行を遅らせてるとでも言いてえのか」
「うっ……そ、そうだ」
ジキルに告げた一言が効いたのか、初日ほどの大胆な声は聞こえなくなったが、それでも毎晩の営みが欠かさず行われていることは、クレアには筒抜けだった。
その手の話題が余程恥ずかしいのだろう、ジキルはわざとらしい咳払いを挟んだ。
「末期の感染者がオメガを襲うこととの因果関係はわからないが、少なくとも、私の獣化が止まった一因であることは確かだと思う」
実のところ、クレアも似たようなことを考えていた。
メイが来るまでは、他の感染者と変わらずジキルの獣化は進行していたのだ。何かしらの影響を及ぼしているのはほぼ間違いない。
二人の男は顔を見合ったまま、暫しそれぞれに黙り込む。向こうでメイが掃除をしている水音が聞こえていた。
七日後、ジキルを除き最後の一人だった感染者が死んだ。
他の症例に違わず、感染二十九日目でぱったりと咆哮を止め、食事も摂らなくなり、そのまま檻の中で静かに息を引き取った。夜の十一時を回ったところだった。
クレアは一人無表情で遺体の処理を済ませ、時間をかけて手を洗う。流れる水の冷たさが、いくつかに分かれ点描のようだった思考を一筋の線へと変えた。
靴底が床のコンクリートを打つ音が、音の消え失せたかのような施設内に反響する。
独房に近づけばようやく自分以外の存在の気配を感じた。メイの話し声。夜は静かにしろと口を酸っぱくして言い続け、やっと最近、声のボリュームを抑えることを覚えた。
照明を点け、鉄網の前に立つ。
もう寝るつもりだったのだろう、メイはすでに寝台の上で、ジキルはその横に腰掛けていた。
いつになく神妙なクレアの表情に、メイが口を噤む。ジキルは静かに微笑んで「ご苦労だねえ」と労いの言葉をかけた。
獣化した耳には、遺体を引きずる音も、ボディバッグを閉める音も聞こえていたのだろう。
クレアは鉄網から三歩引いたところに立っていた。丸眼鏡を外したジキルの、ウイスキーのような色の瞳を見、少し饐えた臭いの空気を吸う。
「あんた以外の感染者は全員死んだよ」
硬い声が響いた。メイが息を飲む気配。ジキルは表情を変えない。柔らかに口角を上げてクレアを見つめていた。
「わかるか? あんた以外はみんな死んだ。あんたがここに来てもう三週間以上経った。新しい感染者が来る気配はない」
聡い男が僅かに首を傾げる。ヒトの毛髪と獣の毛が混じった頭部に、蛍光灯の白い光が落ちている。クレアは彼の反応を見落とさないよう目を凝らした。
「これ以上の感染者が出ないなら、治療法を探す必要もない。上の決定だ」
「それは……医療関係者の端くれとして、首を縦には振りかねるのだが」
ジキルがそこで口を開いた。メイが忙しなく首を動かして、二人を順に見ている。
数秒の沈黙の後、クレアは唇を歪ませ笑みの形をつくった。
「安心しろ。あんたにはもう、振れる首もなくなる」
独房の中に注がれた眼は隙なく一人を見据えたまま。
遺体の肌より低い温度の声で告げる。
「死んでもらうぜ。ジキル・シェリウス」
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