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#2-3

仮眠程度の微睡みしか得られなかった翌朝、クレアはわざと靴底を高い音で鳴らしながらジキルの独房の前に立つ。 所長室のものに輪をかけて粗末な寝台の上、白髪混じりの男は横にならずに腰掛けていた。シーツにくるまり丸くなって眠る、ずっと年下の男の黒髪を撫でている。 「おはよう、看守さん。昨夜は騒がせてすまなかった」 「……暗喩か?」 「ん? 何がだ」 傍らに置いていたらしい丸眼鏡を取り上げて掛けながら、きょと、とした顔でクレアを見る。顔周りの被毛と相俟って、呑気な犬のようだ。クレアは隈の浮いた目を威圧的に細めて吐き捨てる。 「声とか音とか丸聞こえなんだよエロジジイ。ガキ捕まえて何教え込んでんだ、この変態がァ」 「なっ、へ、っ……」 決して血色の良くはなかった顔が、みるみるうちに赤くなった。意外な反応にクレアは発言を後悔する。オッサンの赤面など見たくなかった。 「わ、私じゃないぞ、この子がだな、……いや、何でもない」 慌てて何やら弁明しようとするも、思い留まったらしくすぐに口を噤んだ。ぜひ黙ってほしい。イカれた変態カップルの床事情など聞きたくもない。 食事は多少余裕をもって手配されているから、仕方なくメイの分を出してやっても支障はなかった。 パンと蒸した野菜とハムとチーズ、それにスープ。「意外といいもん食ってんじゃん」と言いながらメイは大口を開けて頬張った。ここは牢屋ではないのだから当たり前だ、とクレアは返した。 最初の三日間、クレアはメイを鉄網のこちら側に出す気はなかったが、四日目の朝に通路と所員用のトイレとシャワー室の掃除を命じた。メイが忍び込んできた壁の穴は翌朝すぐにクレアが応急処置で塞いだが、その修繕もさせた。 現状一人で施設を管理しているクレアにとって、労働力としてのメイは独房の中で放っておくには惜しかった。 それに何もすることがなければメイは朝から晩まで絶えず口を動かしていて、あまりの煩さにクレアは辟易し、仕事を与えることにしたのだった。 侵入者に施設内を好きに歩かせるなど、ばれれば一大事だが、まあ、ばれなければ問題ない。結果的にメイは無害だった。 そうしてメイの襲来からあっという間に一週間が経過した。 ジキルの二日前から収容されている感染者は、身体が完全に獣化し、日に何度か意味不明な唸り声をあげるようになった。三日前から奥の檻に移動している。 奥にはその他に四名。いずれも第三段階以上だ。つまり、数日のうちに死ぬ。 感染者は時間の経過と共に獣化が進む。肉体は二十日ほどで完全に変異を終えるが、精神まで獣になりきるには、それからさらに五日ほどかかる。 クレアの見てきた限り、感染者にとっては、この五日間が最も苦悶に満ちた時間だった。 肉体的な苦しみや痛みではない。 徐々に理性を保つことが難しくなり、粗暴な衝動に蝕まれてゆく恐怖。自分が自分でなくなることの底知れぬ絶望。 殺してほしい、という言葉を何度も聞いた。 殺してやれたらどんなに楽か、とクレアも思った。 手前の独房に入った感染者はジキル一人になった。 感染十七日目であるはずのジキルは、しかし、この一週間ほとんど様子が変わっていない。 理性の揺らぎが現れ始めてもおかしくない時期だが、意識は極めてはっきりしているし、何より、身体の獣化が停滞しているように見える。 感染者の搬入も、ジキルを最後に止まっていた。 一週間で四名が死んだ。 唸り声や咆哮が減ったので、施設内は以前よりも静かになっていた。 「獣人病の被害者はあんたで最後になるかもな」 夕食の食器を下げてやりながら、クレアはジキルにそう言った。未だジキルは獣の手で器用にフォークを使っている。食べ方はメイの方が汚いくらいだ。 差し入れてやった数日前の新聞に目を落としながら、ジキルは「そうか。喜ばしいことだな」と微笑む。 「結局、ろくな治療法も見つかってねえのにな」 「原因と予防法がわかったじゃないか。お陰で発症せずに済んだ人が大勢いるんだろう。不治の病はかからないことが第一だからな」 もはやクレアにとってまともな話し相手はジキルしかいなかったので、特にここ数日は、メイに横槍を入れられながらもいろいろなことを話した。 ジキルは町で薬屋のようなことをしていたらしい。頭の回転が速く博識だった。 ジキルの隣に座って、これもクレアが暇潰しにと貸してやった戯曲を読んでいた(意味を理解しているのかは謎だ)メイが、ばたんと乱暴に本を閉じた。 「バッカじゃねーの。何が喜ばしい、だ」 いつになく声を低めて吐き捨てると、本をその場に置いて寝台に潜り込んだ。 丸く膨らんだシーツが震えだす。 ジキルはクレアと鉄網越しに顔を見合わせ、静かに立ち上がると寝台へと歩み寄った。 「メイ。泣かないでくれ」 「泣いてねーよ」 「悪かった。無神経なことを言って」 「うるせー」 「すまない」 謝るんじゃねー、と細い声を背に聞きながら、クレアはその場を離れた。

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