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#2 ジキルとメイ
物音で目を覚ましたのは、軍人時代に研ぎ澄まされたクレアの感覚がまだ死んでいない証拠といえた。
獣化したアルファ達のたてる騒音なら聞き慣れたが、それとは明らかに異質なものだった。
足音と金属音に続き、ひそひそと囁き合う声は口論のようにも聞こえる。
軽感染者が収容された、辛うじて人の暮らす部屋らしい個室が並んだ棟。クレアが密かに独房と呼んでいる、そのあたりから声はした。
形ばかりの所長室のすぐそばだ。
銃を片手に照明のスイッチを押す。
探すまでもなくあっさりと侵入者は見つかった。
独房の一室の前に小柄な影がひとつ。
ほとんどぼろと呼んで差支えなさそうな見窄らしい衣服を纏った、うら若い男が立っていた。
「どこから入った」
男は自身に向けられた銃口を静かな目で見返す。
返事の代わりに、独房の鉄網の向こうから「ああ、ほら」と溜め息混じりのしわがれた声がした。
「看守さんに見つかってしまった。メイ、もう諦めて逃げなさい」
「嫌だね。ここまで追ってきたんだ。死んでもあんたから離れるもんか」
男は鉄網に両手の指をしっかりと絡ませ動かない。攻撃してくる様子はなさそうだ。クレアは独房の中にもさっと目を走らせる。
収容されている男はジキル・シェリウス、四十二歳。
感染十日目とみられる、今現在この施設内にいる中で最も日数の浅い感染者だ。六日前からここにいる。
後ろで緩く束ねられた頭髪には、年齢の割には白いものの割合が多く、その中に獣化した硬質な黒い毛も混じり始めていた。
丸眼鏡の奥の目元も、獣化が進んだことで数日前より彫りが深くなり、皺が刻まれている。
両手足はすでに獣の被毛に覆われ、爪も皮膚も硬化していた。
飄々として聡く、掴みどころのない男だが、今は困りきったように眉を下げているだけで、こちらも何か行動を起こすような気配はなかった。
「まずは両手を上げろ。どこから入った、何者だ、何しに来た。順に答えろ」
まだ幼ささえ残る小造りの顔をつんと上向けて、男は両の掌を頭の左右に掲げた。そしてすらすらと質問に答え始める。
「西側の壁にネズミ穴があったから、ちょっとだけ拡げさせてもらった。トイレの用具庫に繋がってたよ。
俺の名前はメイだけど、別にそれ以外、何者でもない。
ええと、あとは……そう、俺の用事は」
メイというその男は、手を上げたままで目線を独房の中へと向ける。
悪戯の成果を自慢する子供のような、生意気な顔で少し笑うと、
「このオッサンに喰い殺されに来たんだ」
ジキルの大袈裟なほどの溜め息がその場に蜥蜴の尾のように落ちた。クレアは喰い殺すというワードに反応し、眉をぴくりと動かす。
「……お前、オメガか? そいつの番か」
「はは、番じゃないよ、まだ」
まだ、と言うからには、彼らは恋人なのだろうか。ずいぶんと歳の離れたカップルだ。しかし今クレアにとって重要なのはそこではなかった。
「獣化したアルファはオメガに過剰反応する」
「一目散に逃げろって教わったよ」
「なぜこんな危険なところに来た。感染者だらけの収容施設だぞ」
「だから、このオッサン追っかけて来たんだって言ってるじゃん」
メイは平然と答えた。大きな黒い瞳は真剣そのもので、煌めきすら浮かべている。
信じられない。クレアは頭を抱えたい気分になった。
クレアはベータだ。
今は一人で施設の管理をしている留守番のようなもので、つい先日までここには他にも所員がいた。
獣人病の治療法を探す医療関係者や、感染者たちの世話係、様々いたが全員がベータだった。当然だ。アルファなら感染するしオメガは襲われる。
こんな場所にオメガが一人で来るなんて、ウサギが空腹のオオカミの群れに飛び込むようなものだ。
鉄網の向こうでジキルもクレアと同じような表情をしていた。
「看守さん、この子は本当に私を追って来ただけで、それ以上の目的はないんだ。見逃してくれないか」
「黙ってろって。俺は帰らないからな」
唇から覗く鋭い牙とは笑えるほど不釣り合いな、懇願と疲弊の混じったような声でジキルが言う。
それに対してメイは白い小さな歯を剥き出しながら強情に吐き捨てた。
「もし俺をここから追い出そうってんならなあ……俺はその足で繁華街に行って、アルファ専用の風俗店にでも突入して、獣人病の菌を撒き散らしてやるッ」
クレアはいよいよ眉間を押さえる。
ずいぶんな面倒事がやって来たものだ。口が達者で強情なクソガキとは。世の中に存在するあらゆるものの中でも、だいぶ嫌いな方の部類だ。
「いいか、俺は看守じゃない。ここは牢屋じゃないんだからな。それから」
まず独房内のジキルに向けてクレアはそう言った。続いてメイに向き直る。
「お前はこの男を連れて逃げようと考えているわけではないんだな?」
「うーん、まあ、出来るならそうしたいけど。獣人病が治って、元通りの生活が出来るんならね」
「獣人病の治療法は見つかっていない。発症したら助からない」
冷酷な真実だけを告げると、メイの幼気な瞳は僅かに揺れたようにも見えたが、ほんの一瞬のことでクレアの錯覚かもしれなかった。
フンと鼻を鳴らし、メイはきっぱりと宣言する。
「コイツが死ぬなら俺も死ぬ。コイツに喰い殺してもらう。コイツのいない世界に用はない」
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