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SCENE3
鏡の中の自分を、見つめる。凛の趣味で飾りつけられ、半日で別人になった俺。
髪は透明感のあるシルバーで、くせ毛を生かした無造作なスタイリングにされた。かっこいいはかっこいいけど、外人の子供みたいで恥ずかしい。
服は、デザインが個性的な半袖シャツに、Tシャツのくせに一万もした、ロックテイストのTシャツの重ね着。ビンテージっぽいダメージ加工が施されたジーンズ。両手の指には、クロスやドクロをデザインしたシルバーのごつい指輪が、全部で五個。
凛は、今日だけで数十万散財したんじゃないだろうか。
俺にはそれが、なんのためなのか分かりかけていた。やっぱり、タイプだなんて嘘だった。いや、ある意味ではタイプには違いない。
鏡の中の俺は、泣きそうな顔をしている。舞い上がってはしゃいでいた心も、今は水の底を這うようだ。
凛の行きつけのヘアサロンの連中は、俺を見て顔色を変えた。昼に寄ったラーメン屋の店長は、「二人お揃いなのは久し振りじゃないか」と、俺に親しげに笑いかけた。
そして、連れて来られたこの部屋には、不在、というあまりにもあざやかな誰かの存在があった。
玄関には、明らかに凛には履けない小さめのサイズの靴。俺の目の前、洗面台には歯ブラシが二本並び、化粧品や整髪料も、一人で使うには種類が多い。間違いなく、二人暮らしだったことが明らかだ。
つまり、ここで一緒に暮らしていた恋人が、知りあいでも見間違えるほど、俺そっくりだということなんだろう。
ドアが開いて、洗面所に凛が入ってきた。
「どうしたんだ、リビングで待ってたのに」
鏡に映る、凛の笑顔。片頬で笑うのがくせのその笑顔に、笑いかける。暴れ回る疑問ややるせなさを、足の裏で踏みつけにして。
「向こうへ行こう。日も暮れたし、夜景がきれいだぞ」
俺は無言でうなずいて、腰に回される腕に身を預けた。
「うわっ、ホントだ、すげえ……」
凛の腕を抜け出して、窓に駆け寄る。目の前には、とんでもなくきれいな景色が広がっていた。六本木ヒルズ、東京タワー、レインボーブリッジ、お台場の観覧車。流れていく車の明かり。華やかな東京の夜を独り占めしてる気分だ。
「サイコーだろ?」
凛の言葉に、俺は声もなく何度もうなずいた。窓に貼りついて、夜景を夢中で端から端まで眺め回す。
「子供みたいなヤツだな」
笑い混じりの声に、頬が熱くなる。さっきまでの重い気持ちも、たちまち散ってしまっていた。
凛が開けてくれた窓から、ベランダに出た。ここまでは、街の喧騒も届かない。ただ静かで、ひたすらにきれいだ。
ベランダから身を乗り出して夜景を味わう俺の肩を抱く、凛の腕。重みが心地いい。さらさらといい匂いがする。
どんな小さなことでも、凛を感じていられるなら、それが俺の幸せになる。
たとえ恋人がいないさみしさを埋めるための、一時的な身代わりでも。誰かに間違われるほどにそっくりに飾りつけられても、苦しさややるせなさはいくらでも無視できる。
凛のそばにいられさえすれば、それで。
「キスしよう」
凛の深みのある声が、耳もとでささやく。顔を向けると、凛のかさついた厚い唇が柔らかく重ねられる。
きつく俺を抱きしめる腕に応えて、背伸びして凛の頭を抱いた。硬い、黒々した短髪。
激しくなっていくキスを、髪の感触を、抱きしめる腕の力強さを、押しつけられる欲情のたかぶりを、しっかりと受け止め、心に刻みつける。
「抱きたい……」
艶っぽい声。耳をなぶる舌。吐息が震えた。立っているのもあやうくて、凛の肩にすがる。目に飛びこんできた東京タワーのまばゆさに、目がくらんだ。
もつれあうようにして、部屋の中に戻る。そのままソファで、俺達は抱きあった。
凛の深いため息に、俺は目を覚ました。
いつの間に寝てしまったのか、ソファにうつ伏せている俺を凛が包んでいて、さらにその上から毛布がかけられていた。二人とも、全裸のままだ。
「……こうして、一日中でも抱きあっていたかった……」
凛のひそかでうつろなつぶやき。風化するように消えていくのが、見える気がした。
「できることなら、仕事もしないで……」
ほろ、ほろ、とこぼされる言葉は、まるで涙。
俺を抱きしめながら思いをはせるのは、たぶんいなくなった恋人。
きりきりと、こころが痛む。それでも俺は寝たふりを続けた。頬に、凛の息がかかる。唇がそっと、キスを落とす。
「分かってるのにな」
くくっ、と押し殺した笑い。なにが、と訊きたかった。もう恋人が戻ってこないことをか。こんなことをしてもどうにもならないことをか。
腰が甘くしびれている。その幸せなはずの情事の名残が、鈍い痛みに変わる。
「歌のようにいくはずなんかないんだ……」
俺を抱きしめる腕に力がこもる。
失望。暗い喜び。恋に傷ついた心を知っていくことへの。
凛のラブソングは情熱的で、時に狂おしいほどに相手を想い、永遠を誓っている。こんなふうに愛されたいと、聴く人は思う。
そんな歌の数々は、特定の誰かに向けてのものだったんだろうか。ここで一緒に暮らしていたのが、その誰かだったんだろうか。
凛が別れた後も面影を追い続ける、俺に似た恋人。どんな人だったんだろう。恋人と暮らしていたこの部屋に俺がいることで、凛は思い出をなぞって癒されているんだろうか。
でもまさか、恋人と別れたのが活動休止の原因じゃないだろう。支えて欲しい時にいなくなられて、忘れられなくて、つい恋人に似てた俺を選んだ、そんなとこだろう。
せつない。凛のこころは、今俺を抱きしめている腕ほど強くない。
正直、俺はとまどってる。凛の傷の生々しさと切実さに。俺の中にしっかりときっぱりと、存在していた凛。これ以上ないくらい男らしくクールで、だけど秘めた情熱は激しい。そんなイメージが、崩されていく。
だけど俺は思う。恋で傷ついた心は、恋でしか癒せない。俺が新しい恋の相手になって、凛を癒そう。まず傷を癒して、それから活動休止の本当の原因に取り組めばいい。
凛を助けたい。また凛の歌が聴きたい。俺にそれができるかは、分からない。でもひたすらに想えば、努力すれば、きっと凛にも伝わるだろう。
こらえきれずに、俺は小さくくしゃみをした。凛の身体が、びっくりしたのか小さく跳ねる。
「起きたのか?」
かすれた凛の声に、俺はうなずいた。途端にずしりと、俺を上から包んでいた凛の重さが全身にかかる。
「ずっと寝ないでこうしてたの? つらくなかった?」
「別に。ずっとお前の寝顔を見てた」
「こっ、このままじゃ風邪ひいちゃうじゃん、起こすか凛だけ服着たらよかったのに」
凛の言葉に照れると、凛は笑いながら俺の頬にキスしてきた。
「お前はかわいいな。最高だ」
小さく唇を噛む。甘い言葉を、素直に喜べない。にがい。
最高だというのはきっと、俺のいろんなところが、この部屋からいなくなった恋人に似ているからなんだと思う。
「シャワー浴びたら、部屋見てもいい?」
ああ、とうなるように答えて、凛は言った。
「でもあの部屋には入れない。鍵がかかってる」
深く沈んだ、凍えた声で、凛は俺達が足を向けている、リビングの右側にあるドアを示した。
どういうことなんだろう。恋人がいなくなる時に、鍵をかけていったとか? 気になる。だけどきっと、今それは追及しない方がいい。
「お前がシャワーを浴びてる間に、酒を用意しておくよ」
凛はそう言って身体を起こした。
「じゃ、シャワー借りるね」
「着替えいるよな?」
「うん、貸してもらえると助かる」
友達や恋人ならなんてことのない会話。やっぱり、うれしさがにじんでしまう。事情はどうあれ、凛と恋人のように過ごせてるという事実は変わらないから。
「髪、ちゃんと拭けよ」
タオルを頭からかぶってバスルームから出ると、凛が近づいてきて、わしゃわしゃ俺の髪を拭いてくれた。
「いつもちゃんと拭かないで風邪ひくんだから」
恋人の、ことだ。
はっとした表情はタオルに隠れて、凛には見えない。
「そうだごめん、ワインなかったんだ。ビールでいいか?」
恋人の、趣味だ。俺はワインなんか好きじゃない。
「どうした?」
呆然と凛を見る俺に、肩を覆うようにタオルをかけながら、柔らかく笑いかける笑顔。
「なんでもない、喉乾いちゃったな」
俺に求められてるのは、なにもかもを別れた恋人に似せることなんだろうか。
濡れた髪を手ぐしで整えてくれる凛の手の感触が、遠かった。
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