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SCENE4
ここで凛と暮らし始めて、二週間。
冷房をきかせたリビングで、俺達はソファに寄り添って座っていた。
リビング、ベッドルーム、ウォークインクローゼット、バスルーム。それに凛の仕事部屋と、鍵のかけられた部屋。そんな二人のマンションに、恋人はなにもかもをそのまま残して、突然姿を消してしまったかのようだった。恋人の存在を感じない場所はなかった。
たとえば、リビングの左隅の一角に、いくつも飾られているフレームに入った写真。あれも恋人の趣味だろう。
まるでアート系の店のディスプレイのように、センスよくバランスよく飾られた写真は、すべて凛の写真。俺にも見覚えがある、雑誌で使われていたものも多い。
特にあの真ん中の、ステージで赤いライトを浴びてうつむいてる写真がたまらない。あれは確か、二年前……。
唐突な口づけに、思考が途切れた。顔を両手で包みこまれ、何度も唇をふれあわせるだけの口づけが繰り返される。
凛に求められるたびに、注ぎこまれるせつなさが澄んでいく。深みを増していく。きしむ。そんな気がしている。
「……なにがそんなに、つらいの?」
凛の耳もとに、そっと流しこむようにささやく。凛はただ、力なく微笑んだ。
お前には言えない。表情がそう語っている気がした。この部屋にも凛の心にも、恋人の存在が満ちてるのを感じる限り、その思いは消せない。
凛が俺にいなくなった恋人を求めてるのは、相変わらずだった。
凛が俺に押しつけてくる、趣味や行動。おかげで俺は、俺そっくりの恋人と凛との暮らしを、こうしたかったという願望を、嫌でもなぞるはめになった。
朝は恋人の方が早く起きて、コーヒーメーカーにコーヒーを満たす。凛を起こして二人で濃いブラックコーヒーを飲んで、一日が始まる。
昼、腹が減ってきたらマンションのすぐそばの公園を散歩がてら突っ切って、行きつけのカフェで食事をする。帰りには公園の中にある図書館に行ったり、カフェからそのまま、歩いて買い物に行くこともある。
家に帰ると、一緒に映画を見たりそれぞれに読書をしながら、恋人はワイン、凛はビールを飲んでのんびりする。
ブラックコーヒー、イタリア料理、ワイン。フランス映画。写真集に画集。散歩。それまで行ったこともなかった街。
凛の恋人が好きだったもの。それまであまり縁がなかったものに、俺は次第に慣れていった。朝はブラックコーヒーを飲まなきゃ、いまいちすっきりしないような気さえしてきた。
だけど、このリアルすぎるままごとに、凛自身のめりこめてないのを俺は感じていた。リアルなだけ、ちょっとした違いがひっかかる。目につく。
当然だ。俺は遠山洋だ。いなくなった恋人とは違う。凛だってそれは、分かりすぎてるはずだ。でも凛がこのままごとをやめない限り、俺が遠山洋として凛を癒すことは、できない。
かなしい、もろい、ぬくもり。しっかりと抱きしめる。凛は俺の肩に顔を埋めて、動かない。
俺が知ってるシンガーとしての凛は、憧れ続けた男らしさは、商品として作り上げられたものだったのかも知れない。そんな、あきらめにも似た思いがある。
すっかりしぼんでしまった凛。凛は俺に、弱さを隠さなくなった。これが本当の凛なんじゃないか。そんな気さえ、してきている。
愛する者がそばにいないと輝けないんだとしたら、あのステージでの圧倒的な輝きの源は恋人なんだとしたら、俺にはとてもそんな価値はない。
なんの取り柄もなくて、これといった目標もなくて、ずっとフリーター生活。追いかけ続けてた凛が活動を休止したら、気が抜けて途方に暮れてしまったような俺だ。
俺にできるのは、ただひたすらに凛を想うこと。立ち直ってくれるのを信じて、そばにいること。それだけだ。
「悪くないな……」
いきなり、凛がつぶやいた。思いに埋もれすぎてた俺は、びくりと身体を震わせた。
「な、なにが?」
凛は深く長く息を吐くと、言った。
「頭、ずっと撫でてくれるか?」
「あ、うん、いいよ」
俺は無意識のうちに一心に、凛の頭をなでていたらしい。
「身体デカイくせに、ガキでごめんな」
ぬくもりを預けてくる凛。その重みが心地いい。頼られる喜びが、じわじわ染みこむようだった。
「甘えてくれていいよ。大型犬みたいでかわいい」
「犬か。そう言われたのは初めてだ」
凛はふっと笑って、俺のぬくもりにもっと深く埋もれる。
「……甘えられるって、いいもんなんだな」
そうだ、こんな俺でも、ぬくもりならいくらでもあげられる。凛に安らぎを感じさせることができる。死にでもしない限り、ぬくもりが消えることはない。
いるだけでもいくらかは役に立てる。そう気づいて、俺はほっとした。
数日後の真夜中、俺はふと目が覚めた。凛のぬくもりを探ろうとして、すぐに空気で隣にいないと知る。
ベッドに大の字になって、深いため息をつく。凛はどこに行ったんだろう。ぼんやり待ってみたけど、なかなか戻ってこない。物音もしない。
俺は妙に気になって、ベッドを出てリビングに行った。
「あ……」
鍵がかかっていると言っていた部屋のドアが少しだけ開いていて、そこから光が漏れている。
そっと足音を忍ばせて、ドアに近づく。
上半身裸の、凛の引き締まった背中が見えた。それと、背の高いスチールラックの棚に並ぶ、ケースに入ったいくつものカメラと、レンズらしき物。
恋人の部屋だったんだろうと予想はついてたけど、封印してたのは恋人じゃなく凛自身だった。
「北斗……」
つぶやいて、顔を覆う凛。
「北斗、北斗……」
しぼりだされる、うめきに似た声。鈍く胸に刺さる。
たぶん、いなくなった恋人の名前。
涙がにじむ。
つらい。いたい。かなしい。くやしい。くるしい。
「……俺、動けないんだ……。歌えない……。ごめんな」
そっと謝る声が、震えていた。凛は棚に並んだカメラケースを、静かに指で撫でる。
「ごめんな……。ごめんな、北斗……」
泣いている。震えるがっしりした後ろ姿が、やけに遠いものに思えた。
俺は駆け出したい気持ちを抑えてドアを離れ、ひそかにベッドルームに戻った。ベッドに転がり、両手で顔を覆う。
こころがじくじく痛む。このままでは膿んでしまいそうに。
凛はもっと痛いだろう。謝る声は心細く揺れ、かすれていた。かなしみにあえいでいた。
北斗という恋人は、いなくなったんじゃなく、死んだんじゃないだろうか。そう考えれば、今までの凛の言動も理解できる。
動きたくても動けない凛。活動休止の原因も、北斗を亡くしたからかも知れない。
うらやましい。いっそ、北斗になりたい。俺が俺でなくなっても、凛が本来の自分を、歌を、取り返してくれるなら。狂おしいほどに凛に愛されるなら。
でも、俺は俺でしかない。分かってる。たまたま北斗に似ているだけだ。
それでも、どんなに苦しくても、凛のそばにいたい。傷を覆うガーゼでありたいと思う。いつか凛が、立ち上がってくれることを信じて。
俺は、ひそかに泣いた。
翌朝目を覚ますと、凛は俺のすぐそばで、身体を丸めて眠っていた。
切実に恋人の名前を呼んでいた声が、耳にこびりついている。
呼びながら触れていたあの、北斗のカメラ……。北斗? カメラ? そうだあの写真……。
俺の中で、ぱっとすべてが結びついた。
北斗。石橋北斗。雑誌からツアーパンフレットに至るまで、凛の写真がなにかに載る時には、いつもカメラマンとしてクレジットされていた名前。
北斗が撮った凛の写真は、どれもぞくぞくするほどかっこよかったり、優しかったりした。嘘がなかった。ぴったりと密着していた。
愛する人の最高の一瞬を切り取り、残すことに夢中だった北斗。それに応える凛。仕事上での二人は、そうやってプロ同士真剣に向きあい、互いを磨き、信頼を深めていったんだろう。
だけど俺には、なにもない。
凛を抱きしめる腕に力をこめる。凛が小さくうなって、頭を俺の肩に押しつけてきた。
ファンでいるだけでは、絶対に味わえなかった、凛のぬくもり。肌の匂い。幸せだ。傷が大きく口を開けているのが見えても、それでも。
黒々とした髪をなでていると、やがて凛が目を覚ました。
凛は充血したよどんだ目で、しばらくぼんやり俺を見つめた。水をすくうように静かに、俺の顔を両手で包みこむ。
「……お前は、どこにも行くな……。ずっと、そばにいてくれ……」
つぶやきがゆらめく。
「大丈夫、俺はどこにも行かないよ」
即座に答えた。凛が必要としてくれてるという事実、それさえあればもう、どうでもいい。
凛は本当にうれしそうにまぶしく笑うと、俺をしっかり抱きしめてまた眠りに落ちていった。
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