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SCENE6

 凛は曲を作り始めた。もうすぐ、また凛の歌が聴けるようになる。せつなく力強くきらめくラブソングが。  キーボードをちょっと弾いてはやめたり、何度も同じようなフレーズを繰り返しているのを、俺はリビングのソファでかみしめるようにして聴いていた。  今俺は、凛が歌を生み出そうとしているのに立ち会っている。聴くだけで楽器はできない俺にも、凛が一音一音掘り出すようにして、丁寧に音を積み重ねていく過程がうかがえた。  一瞬たりとも忘れたくない、凛と抱きあっているのと同じぐらい貴重な時間。こんなふうにじっくり繊細に作られる音楽が、人の心を揺さぶるのは当然だろう。  空腹を感じて時計を見る。午後三時を少し過ぎていた。凛が仕事部屋に入って、四時間以上が経つ。その間、凛は一歩も部屋から出てこない。  仕事部屋には入ってくるな、と言われていた。マジ引くから、とてもじゃないけど見せられないと、凛は笑った。  腹減ったな。でもなんか作るのもだるいな……。  突然、髪をなでる感触。思わずびくりと身体を起こす。いつの間にか寝てしまって、いつの間にか隣に凛がいた。  俺は眠気をまとわりつかせたまま、ぼんやり凛を見た。病み上がりのような、くたびれて弱々しい笑顔。 「疲れた。たらふく食って、たらふく寝たい」  そう言って、ぎゅっと俺を抱きしめる。 「……お疲れさま」  いい言葉が浮かばなくて、ただそれだけ言って抱きしめ返す。心からのいたわりをこめて。  じっくり繊細に、なんてとんでもなかった。凛は憔悴していた。身を削る音がはっきりと聞こえそうなほど、全身で打ち込んで曲を作るんだろう。  俺は不安になった。もう俺じゃダメなのかも知れないと。俺が凛にあげられるものは、もうないんじゃないかと。  俺はなにも持ってない。凛や北斗のような才能なんか、なにも。これっぽっちも。きっともう、ただこうして抱きあっていればよかった時期は終わった。  凛が活動を再開してくれるのはうれしい。でも凛がいきいきと動き出したら、俺は凛の隣という、居場所を失ってしまうかも知れない。  その時の凛に必要なのは、マネージャーやサポートミュージシャンやレコーディングスタッフ。ただこの部屋で凛を待つだけしかできない俺は、やがて用なしになるんじゃないか。  このままでいたい自分と、動き出そうとし始めた凛を喜ぶ自分。どちらも強く出ることができず、弱腰でちまちま争っている。 「いつもの店に、メシ食いに行こうか」  俺は言った。雨に打たれているように。  凛はじっと、俺を見つめた。声の暗さに気づいたんだろうか、と思ったけど、凛はただじっと俺を見つめ続けている。 「凛……?」  不安が深まる。いつか持たざる者と持てる者の俺達の間で、言葉さえ通じなくなりそうな気がして。 「あ、ああ、行こう」  なにに捉われていたのか、凛は唇をゆがめた。立ち上がった凛の手に、思わずすがる。  まだ、なくしたくない。そばにいたい。いつまでも。  翌朝。  来客を告げるインターホン。何度も鳴らされる。凛は寝ているのかわざと無視しているのか、ぴくりとも動かない。  俺は起きてリビングに行き、壁についたインターホンのモニターで来客を確認した。小さなモニターに映ってるのは、宅配業者の制服を着た若い男。 「宅配ボックスじゃダメなんですか?」  インターホン越しに言った。高級マンションだけあって、そういう設備はしっかりしてる。すると男は、さわやかな口調で言った。 「いえ、この大きさじゃたぶん入らないですし、それに貴重品で手渡し指定されてるお荷物なんです」  いったいなにが届いたのか、俺は不思議に思ったけど、とりあえずエントランスのロックを解除するキーを押した。  しばらくして、玄関のインターホンが鳴る。ドアを開けると、台車にかなり大きくて重そうな、段ボール箱が載っていた。 「それじゃ、サインお願いします」  箱を玄関先に置く時に、ずん、と鈍い音がした。差出人は、凛の事務所だ。  箱にはふれず、そこに置いたままリビングに戻った。俺が玄関先にいたわずかの間に起きたらしく、凛がだるそうにソファに座っている。 「荷物、届いてるよ」  俺は窓の外を見ながら言った。いい天気だ。今日は火曜日だから、あの店のランチは凛の好きなチーズリゾットだ。 「荷物……?」  凛はまだ眠そうな顔を両手でこすった。 「うん、運べなさそうだったから、玄関先にそのまま」  凛はのそりと立ち上がり、しばらくして箱を押しながら、不機嫌な顔で戻ってきた。 「ったく、重いったらねえな」  ぶつぶつ言いながら、凛は荷物をソファの脇まで持ってきた。煙草をくわえて箱の前にしゃがみこみ、無造作にガムテープをはがす。  ぼんやり眺めていた俺の目に、色とりどりの封筒が飛び込んでくる。  ようやく腕を回せるほどの大きくて高さもある箱に、几帳面にぎっしり詰まった手紙。圧倒的な量だ。数える気にもならない。 「ファンレター、か」  無感動に、取り残されたように凛がつぶやく。  俺はじっとファンレターの山を見つめた。たくさんのファンの切望の声。凛はどんな反応をするのか。怖い。  凛の手が伸びて、ファンレターを何通かつかんだ。乱暴な手つきで手紙の封を切り、次々に読む。読み捨てていく。 「……嫌がらせだな」  凛は言った。うんざりしきった声だった。 「嫌がらせ? これが?」  自分でも驚くくらい鋭い口調で、俺は凛に迫っていた。凛が目だけを上げて俺を見る。 「そうだ」  凛は肩をすくめた。ふてくされたような情けないような、そんな顔で。 「これのどこが嫌がらせだっていうんだよ!」  凛は俺の言葉にも表情を変えず、ゆっくり立ち上がった。そばのテーブルの上の灰皿に、煙草の灰を落とす。 「これだけたくさんのファンが凛の復活を待ってるってことじゃんか、それをなんで、なんで……!」 「なに興奮してんだ?」  冷たい声で言い、ソファに座る凛。ふん、と鼻を鳴らす。  身体が震えてきた。あんまりだ。ファンの願いを、たった一言で踏みにじった。 「俺もファンだからだよ」  言葉がもつれた。言ってしまった。口が勝手に動いた。 「ファン?」  音が聞こえそうな、切り裂く視線。思わず、たじろぐ。 「シンガーとしての俺には、そんなに興味なかったようなふりして? 最低だな」  吐き捨てられた言葉が、俺のこころを凍らせる。凛は俺から顔をそむけた。  壊れた。壊された。壊してしまった。この生活が。凛が。俺が。つい数日前、お前がいてくれたらあとは取り戻すだけだと、そう言ってくれたのに。 「凛のファンで、本当に好きで、また歌を聴きたくて、だから、だから……」 「もう、無理だ」  即答だった。  涙が、あふれる。涙だけが、流れる。感情も意思も置き去りにして。 「メロディーが出てこないんだ。やっぱりもう、歌なんて歌えねえよ」  また凛の歌が聴きたかった。歌って欲しかった。心をわしづかみにする歌を。ラブソングを。 「一生そうやって、思い出にしがみついて生きていくつもりかよ!」  叫びが口をついて出た。感情がようやく追いついた。広いリビングに、寒々しい余韻。握りしめた拳が震え、血の気が引いた。頬をつたう涙の熱さが、いまいましかった。 「歌って欲しいんだ、凛には歌っていて欲しいんだよ!」  凛は無表情に、俺を眺めている。悔しい。  結局はこの暮らしも、無数の励ましも、たった一人の存在に負けた。そういうことだ。 「今を見ろよ! このファンレターの山を見ろよ! どうして思い出ばっかり見てるんだよ!」  凛はうつむき、笑った。静かで確かな、拒絶。それでも俺は、わめき続けた。 「どうしてシンガーになったんだよ、北斗のためにか? 違うだろ? 歌えよ、歌ってくれよ、ラブソングを歌えよ!」  想いをふりしぼった。涙で喉が痛い。凛は微笑んだまま、表情を変えない。  なにもかもをあきらめた笑み。終わりかも知れない。本当に言葉が通じなくなったのかも知れない。 「あの写真に写ってるような、圧倒的な存在感をさ、歌をさ、また……」 「お前にえらそうに言えることなのかよ」  突然の、毅然とした反撃。俺は唇を噛みしめる。激情も言葉も、途端にしぼんでしまった。  壮絶でかたくなな、凛の愛。もう誰にも、凛を救うことはできないんだろうか。そんなの哀しすぎる。むなしすぎる。 「……でも北斗だって、それを願ってるよ」  一番言いたくなかった言葉。だけど一番力を持っていそうな言葉。 「分かってる」  凛は言った。すっかり貼りついてしまった笑顔のままで。  やるせなさがこみあげる。  なにもない俺から、本当になにもなくなった。凛にあげられるものは、なにも。 「元気で」  からっぽになった俺。過去でぎっしりの凛。もう俺にできるのは、ここからいなくなることだけだ。 「出て行くのか?」  凛は心底、意外そうに言った。声は裏返りかけてさえいた。 「……だって、もう、終わりだよ?」  置き去りにされた子供のような、よれよれの声が出た。凛を振り返れない。 「終わり、なのか?」  かなしい。いろんなことが。たぶん一番かなしいのは、自分達の弱さ。 「ここにいろよ」  新しい涙が、俺の頬をつたう。なにに対しての涙なんだろう。こらえようとしても、止められない。 「今日はリゾットだよな、行くぞ」  やさしい響きさえ持った声。  凛が、分からない。 「ほら、なにやってんだよ。着替えろよ」  後ろから、凛の大きな手が俺の頭に添えられる。  つい、うなずいてしまった。俺にも俺が分からない。  俺達はもう完全に、壊れてしまったんだろうか。ただここで、朽ちて埋もれていくんだろうか。

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