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SCENE7

 数日後の夕方。俺は孤島に取り残された気分で、リビングにいた。  凛はファンレターが届いた日の夜からずっと、ろくに食事もせずに仕事部屋にこもりきりでいる。まともに顔をあわせてさえいない。  メロディーが出てこない、と凜は言った。それでもなんとか、曲を作ろうとしているようで、時々キーボードの音が聞こえてくる。でもそれは、本当に時々で、同じところで足踏みしているようだった。 「凛、どうしたの!?」  派手な音がした。物が倒れるような音。立ち上がり、凛の仕事部屋へと走る。 「入ってくるな!」  俺は思わず手を離した。つかんだドアノブに電流が走ったかのように。 「大丈夫? ケガしてない?」  いったいどうしたんだろう。なにがあったんだろう。俺はドアの向こうの凛を必死に感じようとしながら、おろおろするしかなかった。とにかくものすごい音だった。 「大丈夫だから、リビングにいろ」  ドア越しにも突き刺さる、声。殺気立っている。  自分がはがゆい。役に立てない。なにもできない。  ソファでクッションを抱いて、北斗が撮った凛の写真を見つめた。撮る側、撮られる側の気迫と才能のぶつかりあい。  うらやましい。うらやましい……。  もう俺は、ここにいる理由さえ失った。それでも、亡霊のように居座っている。  凛が、いろと言ったから。  クッションにあごを埋めて、凛が出てくるのを待った。仕事部屋からは、なにも聞こえてこない。もう一生出てこないんじゃないか。そうは思っても、動けない。踏みこんでいけない。  やっぱり恋人になんか、なり切れなかった。胸がきしんで、痛む。かなしい。  どのぐらい時間が経ったのか、やがてドアがひそかに開いた。 「凛!」  素早く凛の全身に目を走らせた。とりあえずケガはしてないみたいだ。 「……キーボード、壊しちまった」  凛はつぶやいて、ふらふらおぼつかない足どりで俺に近づいてくる。さんざん泣き明かした後のように、呆然としている。  俺の胸に倒れこんでくる凛。抱きとめると、凛は首にしっかり腕を回して動かなくなった。 「無理しないで。あせらないで、じっくり……」  凛は俺の言葉に、ゆっくりと顔をあげた。そうして俺を見て、本当にかなしそうに微笑む。弱々しく首を横に振る。  拒絶。静かに澄んでやさしいぶん、残酷な。 「……ちょっと、頭冷やしてくる」  凛は車のキーをつかみ、部屋を出て行こうとする。 「ごめん」  出て行く直前のつぶやき。いつまでも部屋の中を漂うような。  凛が開けっ放しにしていった、玄関へと続くドア。打ちのめされて、眺めた。凛はなにを謝ったんだろう。分からない。  だけど俺は、うれしかった。凛が俺に触れてくれたことが。まだ必要とされているような気がして。やっぱりまだ、凛が好きだから。  すっかり日が暮れても、凛は帰ってこなかった。  取り残されて、俺は明かりもつけずにいた。街の明かりも届かない部屋。闇に浮かぶのは、いつでも使ってくれとそっと主張してる、AV機器やテレビの頼りない発光。  なにも考えられなかった。ソファから動かずに、ただじっとしていた。玄関のドアを凛が開けるその瞬間だけを、待ち続けた。  突然の電話。ソファを飛び下り、電話のそばの壁を探って明かりをつける。  凛かも知れない。その一心だった。あせって、通話ボタンを押す手元が狂った。 「もしもし? 凛?」  間があった。電話を切実に見つめて、声を待つ。 「私は凛のマネージャーですが、あなたは?」  俺は息を飲んだ。電話に出たことを後悔しても遅い。 「……まあ、あなたが誰でもいいです。凛に伝えて下さい。北斗君が遺したものが事務所にあるから、一度連絡をくれと」  喉に詰まった声で、なんとか返事をした。マネージャーは落ち着いた低い声で言葉を継ぐ。 「大きな箱が届いたでしょう、凛はあれをどうしました?」 「分かりません」  俺は正直に答えた。凛はファンレターが詰まった箱を、仕事部屋に運んだ。その後どうしたかは、あの部屋に入れない俺は知らない。 「そうですか、ではまた連絡しますが、伝言くれぐれもよろしくお願いします」  感情を感じさせない声で言うと、マネージャーは電話を切った。  北斗君が遺したもの。  その一言に途端に胸がざわめいた。聞いたら、凛はどんな顔をするだろう。どうするだろう。見たくない。  北斗を求める、冷めた失望のまなざし。つらそうな表情。ひそかなため息。その一つ一つが、かなしく俺を刺した。  俺にも凛を癒せたと思ったのもつかの間、歌を生み出すという厳しい作業に、凛の傷はまた開いてしまった。  だけど。だけど俺は、それを伝えずにはいられない。ぼろぼろに疲れて壊れた凛を救えるのは、きっと北斗しかいないから。  北斗君が遺したもの。  ぐるぐるとその言葉ばかりがそこらじゅうを駆け回る。  北斗君が遺したもの。  いっそ早く凛に告げて、楽になりたい。  凛は明け方近くに帰ってきた。寝ずに待っていた俺は、凛の顔を見るなり「北斗君が遺したもの」のことを言った。  それから三日。凛は曲作りをやめたらしいのに、仕事部屋にこもりっきりだ。  俺を見ない。ふれない。もちろん言葉もない。寝る時は、広いベッドの両端に分かれて眠った。寝つけずに、凛の背中を見つめた。  俺は罰なのかも知れない、と思うようになった。ファンだということを隠していたことへの、ゆるやかな拷問。じわじわと殺されていく。でも同時に凛はきっと、自分の首も締めている。  もう限界だ。たとえ凛にいろと言われようと、出ていこうと決めた。このままでは俺達は粉々に砕けて自滅してしまう。  ひそかに、出ていく準備をした。凛に買ってもらった指輪をはずし、服は自分で買った安物のシャツとジーンズに着替えた。  あとは、出ていくよ、という言葉さえちゃんと言えればいい。  俺は、これまでノックしたことのない仕事部屋のドアをノックした。 「凛? 凛、ちょっといいかな」  声が少し震えてしまった。ただ漠然と怖かった。  無視されたかと思った頃、入れよ、とひどくかすれた声が言った。  ドアを開けた。立ちつくした。いや、立ちすくんでしまった。  部屋に大の字になって転がっている凛。色とりどりの便せんに埋もれている。死を飾る花に見えて、背筋が冷えた。  段ボール箱には、色とりどりの封筒の残骸。凛はすべて読んだのだろう。疲れ果てて目の周りはどす黒く、落ちくぼんでいる。  凛は俺を見上げた。笑った。心からほっとした、晴れやかささえ感じさせる表情で。 「俺、出ていくよ」  凛がなにか言う前に、言ってしまわなければと思った。途端に目の前の笑顔が固まり、凛が立ち上がる。俺は思わず一歩あとずさった。  抱きしめられた。強く。身体がきしむ。腕で凛を押し返そうとしても、動けない。  見てもふれてももらえないのに、これ以上ここにいるのに耐えられない。そう言いたかったのに。  凛は抱きしめる腕の強さにそぐわない、ひどくやさしい柔らかなキスを俺の唇に落とした。 「つきあって欲しい場所があるんだ。今から行こう」  凛はまっすぐに俺を見て言った。たじろぐ。あまりの視線の毅然とした強さに。  凛は真剣だ。勝手だ。壊れてしまっているから。  かなしい。もう涙も出ないけれど。 「……聞こえなかった……?」  たった一言言うのが、苦しくて仕方なかった。凛が、キスしてくれた。それだけで。 「北斗が遺したものを、見に行こうと思うんだ。お前と」  思わず目を見開いた。凛は続ける。 「やっとお前をちゃんと、抱きしめられる自信がついた」  俺は、動けなくなった。どういうことなのか、とっさによく分からなかった。 「……遅すぎたか?」  凛は子供のように、心から不安げに言った。  やっぱり、離れられない。めまいに似た、強烈な愛しさがこみ上げる。  俺は凛に抱きついた。ほっとしたのか、凛の身体から力が抜ける。 「ごめんな、俺はお前達に甘えすぎてたな」  もういい。弁解はいらない。凛が以前の凛に戻るなら、それで。  じっくり抱きあって、キスをして、俺は言った。 「行こう、凛」

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