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起点

スタウトの小瓶から口を離した途端、今度は夫の柔らかな唇に呼吸を塞がれた。口の周りに触れた相手の無精髭がチクチクとし、むず痒くもあった。 その感覚に、ポール・スコットはふふっと笑みを溢しながらも、愛する人の口づけを穏やかに受け容れた。 4月になって、最初の金曜日だった。 まだまだ肌寒いが、随分と過ごしやすい気候になってきた。どんよりとした空模様の日が多く、ベッドのシーツを干すタイミングがなかなか掴めずに困るが、春というだけで気分が少なからず上向きになる。 舌と吐息がひとしきり戯れたのち、どちらからともなくキスを解いた。やんわりと閉じていたまぶたを上げ、黒縁のメガネ越しに夫であるショーン・スコットの端整な顔を、ヒスイ色の瞳に映す。 ショーンは上機嫌に微笑み、まっすぐにポールを見つめ返す。甘ったるく、熱っぽい。まるで細工するために溶かした飴のような眼差しだった。垂れ下がったアーモンド型の双眸、その下に青黒いクマが取れないシミのようにできているが、それさえも怠惰な色気を漂わせているのだから、イケメンはつくづく狡いと思う。 ポールは口元に緩やかな笑みを浮かべ、右手に持ったスタウトの小瓶でショーンの側頭部を軽く小突いた。コン、と小気味よい音が鳴る。たいして痛くないだろうに、仰々しく顔を歪め「あいたっ!」と小さな悲鳴をあげた夫を見て、カラカラと笑う。 「いい音だな」 「俺の頭を打楽器だと思ってるんだ?」 ショーンもくすくすと愉快げに笑い、ポールの白い頬に自らの頬を擦り寄せてきた。また、チクチクとする。それに、ぼうっと熱い。耳元に吹きかけられる吐息もじっとりと熱を帯びている。意図せず、腹の奥底がじわりと疼いてしまい、困るようなそうでないような、判然としない思いを抱いた。 「じゃあ、右手を叩けば、どんな音が鳴るかな?」 そう言って、ポールは自分の細い腰にぐるりと回ったショーンの逞しい右腕を、小瓶の底で撫でた。彼は右手にロンドンプライドの小瓶を持っていた。夕食時に1本飲みきり、これが2本目だ。いい具合に酔いが回って気分が良いようで、さっきからポールの腰や臀部をそれで撫で回していた。 どことなく、意味深な動きで。 「ピクニックの準備、するんだろ?」 スタウトの小瓶が、ロンドンプライドの小瓶とショーンの手を咎めるように叩いた。「明日の朝、バタバタしたくないって言ったのは、貴方だ」 「そうだっけ?」 「そうだよ」 ショーンはまなじりを楽しげに細め、唇に吸いついてくる。それを拒むように頭を動かし、聞き分けの悪い子どもを呼ぶように、「ショーン」と言った。 「僕、明日、すごく楽しみにしてるんだ」 なにせ、明日の土曜日はふたり揃って、オフだった。ニュー・スコットランドヤードの刑事であるポールと、ウェストミンスターにある総合病院の救命医であるショーンは、生活リズムがてんで違う。丸一日、休みが被るなんて、数ヶ月に一度くらいのことだ。 その数ヶ月ぶりというのが、明日だった。何週間も前から、キュー・ガーデンズでピクニックをしようと約束し、ポールはそれを励みに、ほとんど情熱を失っている刑事の仕事をこなしてきたのだった。 キュー・ガーデンズの桜は、今の時期がまさに見頃だ。しかも明日は、珍しく晴天になる予報だった。 萌葱色の芝生に腰をおろし、白色、白桃色、薄ピンク色の様々な桜を仰ぎ、控えめで優しい花の香りを嗅ぎながら、ふたりでゆったりと過ごす。そんな、思わず顔が綻んでしまうようなシチュエーションを、何度頭の中で思い描いたことか。 そして今、ふたりはキッチンに立ち、ビールを呷りつつ夕食後の片付けを終え、さてこれから、明日持っていくソーセージロールやキッシュ、それからスコーンなどを作れるところまで作ろうとしていたところだった。 「俺だって、ものすごく楽しみだよ」 ショーンは柔和な声で言い、手の中にあった小瓶をキッチン台に置くと、大きな両腕でポールを抱きしめた。 「そう思えば思うほど、君が愛おしくて」 「また、そういうこと言って」 顔にぼっと熱が灯ってしまう。ポールは照れ隠しに眉を寄せ、唇を尖らせる。そっちが僕のことを愛おしく思うのなら、僕はより一層、貴方に惚れてしまっただろ。……なんて科白は、恥ずかし過ぎるので絶対に口にしない。 付き合って6年、結婚して2年になるが、想いが落ち着くことなんてなかった。毎日、ショーンを愛しく思い、ふとしたことで胸がドキッと高鳴り、まだ彼のことを好きになれるのかと、自分自身の心に瞠目させられる。 つまりポールは、ショーンにベタ惚れだった。 「だからまずは、君をたっぷり堪能してからね」 「疲れて、何も手伝えなくなる」 「いいよ。俺ひとりで用意するから」 そうは言ってくれるが、ショーンに任せるのだけは、どうしても嫌だった。 「ピクニックには、ふたりで行くんだ」 ポールもキッチン台にスタウトの小瓶を置き、空いた両手でショーンの頬を包んだ。 ショーンが蕩けた笑みで、こちらを見つめてくる。 「準備は、ふたりでやるのが道理だろ」 「君は、本当に真面目だね」 ショーンに左手を掴まれる。彼のかたちの良い唇が、薬指の結婚指輪に、ひたりと触れた。 心臓がとくりと、大きく跳ねたような気がした。 「そんな君が、好きだよ」 極上の愛の囁きに、うっとりとしないわけがなかった。ポールは頬を染めながらも破顔し、ショーンに顔を寄せる。 「じゃあ明日、早起きしてふたりで準備しよう」 僕は後どれだけ、この人を甘やし、この人に甘やかされれば気が済むのだろう。 そんなことを思い、胸のうちで苦笑しながらも、ゆっくりと瞑目し、キスをしようとした。 その時だった。 チャイムの音が、ふたりの間に漂っていた甘い空気を掻き消した。 部屋の明かりがつくように、ふたり揃ってパチッと目を開いた。音の余韻が虚空をよろよろと泳ぎ、ふわりと溶けてなくなる中、顔を見合わせてきょとんとしていると、今度はドンドンドン、と荒々しい叩扉の音が飛び込んできた。 ショーンと同じタイミングで、玄関へと目顔を向けた。時刻は夜の10時過ぎだった。こんな時間に、いったい誰だ? ポールはショーンを見た。ショーンも、不思議そうな表情をこちらに向けてくる。 とりあえず、出よう。うん、そうしよう。と、目で言葉を交わし、ふたりは早足で玄関へ行った。……おおかた、二軒となりの酒飲みのオヤジが、自宅と間違えて開かないドアを叩いているのだろうと推測していた。過去に二度、この家はその被害を受けていた。だから、そうだと信じたかった。 本当のところは、胸騒ぎがして、しょうがなかったのだ。 刑事のカン、というやつだろうか。良くも悪くも、ポールはそれがよく働く方だった。 ノック音が鳴り続けるドアの前に立ったところで、ショーンと目を見合わせた。自分の瞳もきっと、彼のように緊張の色が広がっているに違いない。小さく頷けば、ショーンはドアノブをひねった。 やはり、刑事のカンは当たってしまった。 開かれたドアの向こうにいたのは、友人のエリック・クィンだった。 ハイブランドの高級スーツを着こなしているのはいつも通りだが、それ以外はまったく違った。整髪料できっちりとセットされたブロンドの髪は、バラバラと乱れ、非の打ち所がないほどに整った顔は真っ青で、普段の知的で綽然(しゃくぜん)とした様子は一切なかった。いびつに開いた口からは乱れに乱れた吐息が、次から次へとこぼれ落ち、全身は戦慄いているようだった。 「助けてくれ!」 エリックは半ば狂乱したような声で叫んだ。完全に取り乱している。その理由を訊かずとも、ポールとショーンは理解していた。 エリックの肩に回された丸太のように太い腕は、だらりと脱力している。彼は、すらりとした腕をジャケットの肩口が破れるのではないかと思うほどに伸ばして、その屈強な体躯の大男を抱えていた。 「ジェフが、撃たれた。お願いだ、助けて……!」 ショーンの動きは速かった。エリックからジェフと呼ばれた青年を受け取ると、衣服ごと真っ赤に染まった左上腕部と、血の気のない顔、弱々しい呼吸音をさっと確認した。そして、「入って」と鋭い声と表情でエリックに言い、青年の脱力した身体を支えながらリビングへと向かっていった。 エリックがよろよろとフラットに入ってくる。ポールは静かにドアを閉めると、荒ぶる心臓の鼓動と冷や汗を抑えようと深呼吸しつつ、震える彼の肩を抱いて、夫たちの後を追った。

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