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喪失と充足

そんなことだろうと思った。 エリックがMI5の監視下にあると打ち明けられた時、ポールはその理由が分からず、かなり困惑した。 けれども、ジェフの処置をしている最中、余裕がないながらも、そのことをずっと考えていた。そして、ある答えに行き着いたのだ。 「4年前、僕はジャネットが殺害された事件を担当していた」 当時のことを思い出しながら、ポールはぼそりと言った。 「土曜日の昼下がり、自宅のリビングで撃たれ亡くなっている彼女を、息子と買い物から帰宅した君が発見した。それから2日後、ジャネットを殺したとみられる男が、セントパンクラス駅構内で自爆テロを起こした」 「その男とジャネットは、不倫関係にあった」 エリックがそう言って自嘲するように微笑む。その表情に、ポールの胸はじくりと痛んだ。 「生まれて初めて、恋を知った」 9年前、王立裁判所の事務員だったジャネットとパーティーで知り合い、交際を開始させたエリックが、幸せそうに語っていたことを、ポールは今でもよく憶えている。 これまで、自分のステータスばかりに食いつき、群がってきた女性たちに失望し、それでも気まぐれに遊んでは虚しそうに笑っていた彼を知っているからこそ、そんなロマンチックなことを言いだした時は、跳びあがりそうなほどに驚いた。けれどもエリックからジャネットを紹介された時、なるほど彼女なら、彼の心を見事に射止めることができたわけだと、納得したのだった。 ブルネットの長い髪、中東系のエキゾチックな面立ち、スレンダーな身体。ジャネットは見た目の美しさと、ケンブリッジ大学卒の優秀な頭脳を持つ女性だった。 けれどもその中身は、とても子供っぽくて自由で、面白くて楽しいことが大好きときた。それを一緒に分かち合えるかどうかで恋に落ちてきた彼女は、エリックの家柄や才能などよりも、彼の人柄を知りたがった。 そんなジャネットにエリックは強く惹かれていき、猛烈なアタックの末に、ふたりは結ばれた。その2年後にはめでたく結婚し、翌年に息子のジュリアスが産まれた。 その頃から、エリックは政治コンサルタントとして頭角を現し、公私ともに順風満帆な生活を送っていたかのように見えた。 それが、ジャネットの殺害事件、不倫相手のテロ事件を機に、呆気なく崩れ去ってしまったのだった。 「当時、警察では君への嫌疑は不十分として処理されたけど、MI5はそうは思っていなかった。ということか?」 「あぁ」とエリックは答えた。 「連中は随分と、俺を買い被ってくれている。ジャネットがテロリストと寝ていたことも、その男に唆されて俺の口座から金をかすめていたことも、連中から明かされるまで一切知らなかったというのに。『お前ほどの男が何も知らないわけがない』ときた。……手荒い尋問の後、連中が俺のもとに寄越してきたのが、ジェフだった」 以降、MI5はエリックを監視し続けているそうだ。 「ジェフは俺の行動を、偽りなく《5》に報告している」 エリックの双眸には、怜悧な光がはっきりと灯っている。 「俺が、そうさせている。連中は、局員に忠誠心と従順さを求めているからな。奴らの理想であり続けることが、ジェフを守ることになる」 「君が不利になっても?」 「なったとしても、過激派組織との繋がりは欠片も出てこないからな。それに、連中が治安維持を大義名分に裏でやっていることに比べたら、俺の悪さなんて可愛いものだ。……ともすれば、奴らの組織を揺るがしかねない切り札を、俺は何枚か持っている。よほどの馬鹿でない限り、奴らも下手に動いてはこないさ」 ……眩暈を起こしそうになった。 この男は、国家組織が相手でも容赦がなかった。MI5のやり方に従いながらも、やられっぱなしではないということか。彼らにより、一度はプライドが踏み躙られ、随分とひどい屈辱を味わったのだろうが、あまりにも怖いもの知らずではないか。 ポールは顔を引攣らせ、絶句するしかなかった。その一方で、ショーンは「ドラマみたいだねぇ」と感心深げに呟いていた。暢気な彼が、心底羨ましかった。 「ジェフは俺と《5》に挟まれて、息苦しい思いをしている」 エリックは肩を竦め、ため息をついた。 「最初はいがみ合い、騙し合いの日々だったのが、いつからだろうな……、俺たちはとにかく欠けた人間だ。それを互いで補うように求め合って、しまいに離れられなくなってしまった。……何度もジェフを突き放そうとした。このままだと、ジェフが潰れてしまいそうだったから。それでもあの男は、俺と共に生きていくと言って聞かなかった。先ほどので分かっただろ? あの男はぞっとするくらい頑固なんだ」 そう言って苦笑を浮かべながらも、エリックの瞳は幸福の色を滲ませている。別の部屋で泥のように眠る男を想い、きっとエリックにしか出せない色味で、眼差しを染めていく。 ポールは、改めて確信した。 やはりエリックは、ジェフを深く愛している。 容姿や頭脳に秀で、家柄も良く、仕事の評価も高い。 すべてを得ようと思えば、何だって手に入れることができる。 それほどの力が、エリックにはある。 けれども彼はその実、大切なものを多く失ってきていた。 愛する妻を、妻への信頼を、自由を、平穏な日々を、これまで歩んできた道の途中でなくし、そのままにしている。 永遠に完成しないパズルのようでもあった。ところどころピースが欠け、暗い穴を作っている。欠けたピースは二度と見つかることはないのだろう。 だからこそ、新たに拾ったピースを、手の中で大切に握っていたい。 落として、失くすことが怖い。 そのピースを守りぬけるのなら、たとえパズルがバラバラになり、みっともない有り様になっても構わない。 エリックはきっと、ジェフのためなら犠牲を払うことを厭わない。 ジェフと生きていくためにさらに何かを失っても、「これでいい」と胸をはるに違いない。 喪失感を上回る充足感をエリックは与えられ、また与えているのかも知れない。 ……理知的で理性的だが、こと恋愛になるとどこまでものめり込み、大胆になる。 それが、エリック・クィンという男だった。

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