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第38話
明け方、ふと目を開けた七緒は寝返りをうつ。
いつもなら暖かい体温に触れるはずなのに、今日は冷たいシーツに手が触れたから、驚きのあまりすぐに上半身を起き上がらせた。
「マル?」
壁掛け時計の針の音だけが虚しく部屋に響いていた。
こんな時間にキッチンに立っているはずも無いのに、無意識にマルの残像をそこに作ってしまう。けれどすぐに透明になって見えなくなったから、七緒は寝巻きのTシャツとハーフパンツ姿のまま、部屋を飛び出した。
夜明けと朝の狭間の白んだ時間、街をさ迷った。
「くそっ、隣にいろよって言ったのに!」
マル、と声を出すと、始発電車に乗るらしいサラリーマンがチラッとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
七緒は周りの目なんてお構いなしにマル、マルと名前を呼び続けたが、本人は決して現れることは無かった。
やっぱり帰ってしまったのか。
いや、朝御飯の買い出しに出掛けただけで、きっとすぐに戻って来るはずだ。
どこか諦めの気持ちと、まだ望みを捨てたくない気持ちを入り交じらせていた。
何でもいいから自分に言い聞かせていないと、倒れてしまいそうだった。
せっかく、これからマルと仲良く過ごせるって思っていたのに。
七緒の足は自然とカフェへ向かっていた。
藁にもすがるような思いで水色のドアを開けると、モーニングの準備をしていた店長と目が合う。
「あれ、七緒くん。どうした」
「あの、ここに来ませんでしたか?マル……ニット帽被って、ブカブカのズボン履いた男が」
店長はもう一人の従業員に仕込みを任せ、とりあえず座って落ち着くように七緒に促した。
肩で息をする七緒に、一杯の水を差し出す。
「どうしたの、こんな朝早くに。人を探しているの?」
「はい、あの、この間ここに来た俺の友達です。チョコレートケーキ食べてた男です」
店長はじっと七緒を見つめながら、眉根を寄せている。
「えっと……七緒くんのお友達?」
「はい。そいつお金持ってきてなくて、俺が立て替えてやったやつです。ニット帽被った若い男で、店長がそいつを店の中に入れてくれたって」
「え? ごめん、僕、そのお友達と喋ったのかな?」
不思議そうに探りを入れる店長に違和感を感じた。
マルが来たのはつい最近の事で、子供の頃のエピソードを聞かせてもらったと言っていたし、忘れるような事ではないと思うのだが。
「し、喋ってましたよ。俺が子供の頃泣き虫だったんだって、二人して笑ってましたよ」
「え、七緒くん、泣き虫だったんだ?」
「……覚えてないんですか?」
店長だって、接客業を長年やってきたから人の顔を覚えるのは得意な方だ。ましてやあんなに笑って会話をしていたのだから記憶に残っていそうなものなのに、店長は必死に思い出すように七緒を見つめるばかりだった。
しばらくしてから店長は困ったように告げる。
「ごめん。七緒くん、勘違いしてるって事は無いかな?ちょっと思い出せなくて。その子に連絡はつかないの?電話やメールは?」
店長が嘘を吐いているようには思えなかった。
まるでマルなんて人物がこの世に存在しなかったかのように、記憶がそこだけすっぽり抜け落ちているかのようだった。
「電話、あいつ、持ってなくて……」
七緒はゆっくり立ち上がり、店長に「お騒がせしてすみませんでした」と言ってカフェを出た。
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