100 / 127
ニヒルに笑う
ガラス越しに見る猩々緋はあの時、あの薔薇園で見た美しい男ではなかった。造形こそは変わらないものの、艶やかだった黒髪は光沢を失い、顔色も悪く、目の下には隈を張っていた。
しかし、俺を見つめる目の光だけは失われておらず、俺は鋭く射貫かれているような気分になる。
「…随分元気がないようだな、猩々緋」
そう声を賭けると、猩々緋は少しばかり嬉しそうに笑った。
「もう先生って呼んでくれへんの?」
「……俺もアンタもあの悪夢から目を覚ましたんだ。忘れろ」
初っ端から触れられたくない話題を振られ、怯む。あの夢は現実ではないとわかっているのに、実際あってもおかしくなかった。そう思うとやはりもう二度とみたくない。
「私にとっては悪夢ちゃうけど」
猩々緋はニヒルな笑みを浮かべた。やはりこの男は苦手だった。価値観も、考え方も一切違う人間。わかりあえるような相手ではない。一枚ガラスを隔てているとは言え、1mも離れていないところに相手がいるのは、怖いものだ。
「いやあ、それにしてもあの男にはしてやられたなあ。君、あの男の恋人かなにか?」
「あの男…?」
「シビュラ国第3王子、トーカ・オウシュウ。今は、第七師団団長トーカ殿とでも言った方がええか?君はなにも知らんようやけど、アイツはえげつないで。私の夢の中なんて、圧倒的不利な状況で乗り込んでくるんやからな」
突然あの俺様の名前を出され、動揺するも表情を変えることはない。
「夢に乗り込んでくる…?他人の夢に出入りできるってことか?」
俺が疑問を口にすると、猩々緋は簡単に答えをくれた。
「あの男は自分の繭の中に入って、願ったんや。『君を助ける夢』を見るように。夢は不思議なもので、人間の深い深い思考の海の奥底の部分や。それを制御するなんてしようとすればするほど、現実と夢の境目がわからなくなってくる。…私は私にとって都合の良い夢を見ようとした結果、私とともに繭に呑み込まれた君は、私の夢の中に閉じ込められた」
つまり、猩々緋にとって都合の良い夢は、トーカの言うように…
「そう、君が考えている通りやで。私は君を連れ去りたかった。結局は君の王子様に奪われてしまったけど」
「そんな馬鹿らしいことのためだけに、蟲毒を利用し羅紗を造り出したのか」
「馬鹿らしいことやないよ」
猩々緋は先程まで浮かべていた笑みは消失し、その強い力でこちらを見つめてくる。柔らかい口調なはずなのに、言い返すことができなくてこみ上げてすらいない言葉を飲み込む。
「君の言う『馬鹿らしいこと』のためだけに私はこれだけ手をかけたというのに…。それをあの男に易々と邪魔されるなんて…計算外やったわ」
ダンッとガラスが音を立てて揺れる。
「……アンタはなんでそこまでできるんだ」
先程までは、こんな俺を連れ去りたいなんてことのためだけに、たくさんの犠牲者を出したなんてと怒りが湧いていたはずだった。それも、俺が理由なんて。
それなのに、今ではこの男に興味が向いている。俺はなんて酷い人間なんだろう。
誰にするまでもない言い訳が頭に浮かんでは消えていく。この世界に来る前も、来た今も、俺は自分がなんのために生きているのか、わかっていないのだ。
この男がどれだけ酷いことをしたかはわかってるのに、俺はこの男が自分の人生を懸けることができたのか、気になって仕方がない。国民を捨ててまで、これほどまでのことをできたのか、俺には想像もつかなかったのだ。
「君たちは家族はいたって普通の家庭だった。裕福ではないが、子供は三人いる。父は物流会社に勤め、母は飲食店のパートをする。父は酒を飲むと少し性格が変わるけれど、普通のどこにでもある家庭のはずやった。
だけど、ある日母は君に言った。『子供ができた、これ以上養えない』
君の母は、心に余裕がなかったはずや。長男の君につい言ってしまった。そしてその愚痴は日に日にエスカレートして…」
「『あんたを産まなければ、お腹の子供は祝福されて生まれてくるはずだったのに』」
するり、と自分から口から言葉が零れた。まるで自分の身体が自分のモノではないように錯覚した。今までずっと思い出さないようにしていた記憶が鮮明に蘇る。ゆっくりと、俺の記憶を紡いでいく猩々緋の言葉が頭の中で飽和していく、そんな感じだった。
そして、猩々緋は物語の最後を続ける。
「でもな、君は知らんかもしれんけど、そのお腹の赤ちゃん、生きて母親の腹の中から出てくることはなかったんよ…
…そんでな、その赤ちゃん、私なんよ」
まるで幼児が母親にナイショバナシをするようだった。
猩々緋はニヒルに笑った。
ともだちにシェアしよう!