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寝付けない貴方に

「ケツは無事か」 位置情報を送り、迎えに来た男の第一声はそれだった。前はバイクに乗っていたくせに、先生を助手席座らせたいとか言って、ローンで軽自動車を買ったらしい。そのかわいらしい丸いフォルムの車は、どうにも久賀には似合わなかった。  デリカシーというものを母ちゃんの腹の中に置いてきたこの男をじとりと睨みつつ、 久賀が飲んでいたブラックコーヒーを奪う。 「無事だわ、アホ」 「あっ、テメ」 「にっが、なにこれ人間が飲む飲みもんじゃねえよ」 「…じゃあ飲むなよ」  車内にはしばし沈黙が訪れ、対向車線の車のライトが目に染みる。現在の時刻、2時38分。最初から久賀の家に向かっていれば、今頃は夢の中だった。そう思うと、悔しさがこみ上げてきて、喉から嗚咽が漏れる。久賀の前で泣くなんて嫌なのに、目からは水がボタボタ落ちて止まらない。  普段空気なんて読まないくせに今日に限って静かな男は、俺が泣き声を必死に殺しているのを察してか、ラジオをつけた。 『寝付けない貴方に、早く朝が訪れますように』 男性の、身体に染み込むような声に思わず気が緩む。明るくも寂しさを感じる、どことなく懐かしいイントロがラジオから流れ、夜が更けていく。一度抑えきれなくなった声は、ラジオのサビでかき消された。  なにに悔しさを感じているのかも、どういう感情が起因して泣いているのかも、自分でもよくわからない。  それでも、俺は泣き止むことを諦めない。溢れる涙を集めてなかったことにしたいし、我慢すればするほど漏れる嗚咽を、呑み込んでしまいたい。  久賀も泣いているのを見なかったことにしてやると言わんばかりに、俺の方を見ようとはしない。少しは慰めてくれてもいいのに、とも思うがコイツに慰められたら絶対俺は怒る。めんどくさい自分にまた泣けてきた。 「オラ着いたぞ」 気が付けばそこは久賀の住むアパートの目の前で、助手席の扉を開けた久賀がこちらを見ている。  俺は頷いて、助手席から降りる。  久賀の部屋は、このアパートの二階奥の部屋だ。大学生が住むにしては良い部屋だ。 「風呂、入る?」 「はいる」 全てを流してしまいたかった。今はなにも考えたくない。  未だ少し濡れている洋服を脱いでいく。明日からどうしようかなあ、あのバイトもう続けられないなあ、あとで口座を確認して、学費大丈夫か確認しよう、次のバイト先を見つけなきゃなあ、と色んなことを考えるもそれもすべて後回しだ。  自分の容姿を見る。10cm近く伸びた身長、どれだけ頑張ってもつかなかった筋肉。一見知らない人間が鏡の前に立っているかように見えるが、その平凡な顔つきは見覚えしかない。  15歳だったはずの俺は、20歳で現役の大学生をやっている。不思議なことに、こちらの世界の「東雲子規」としての記憶を知っているし、いつからこちらの世界に来ていたのかもその境目は曖昧だ。  感覚で言えば、こちらの世界の「東雲子規」として生き、本来の「シキ」としての記憶を思い出した、という感覚に近い。この世界で抱いた感情すべてがニセモノだったというのだろうか。  そもそもこの身体の、記憶の持ち主はどこに行ったんだ。

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