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第6話
航が教室を出て数秒。右半身だけに鳥肌が立ったのをミチオは感じ、何気なくそちらを見た。するとそこには相変わらず笑んでいる穂高がいたが、その笑顔の種類がさっきまでとは百八十度違う。
違う。これはもう穂高ではない。
こうなった時の穂高のことを、ミチオは心の中で『穂高さん』と呼ぶ。同い年だとかは関係なく、さん付けしなければミチオの命が危ないからだ。
航には見せることのない表情をした穂高が、ミチオを見ていた。
ほかの誰でもなく、ミチオを、見ていた。
「ミチオ、お前さぁ」
穂高は航の前では『お前』だなんて絶対に使わない。普段は温厚で、柔和な風貌を決して崩さないはずの社穂高は、航がいなくなればたちまち消える。
穏やかな眼差しは据わった目に。控えめで落ち着いた声は、刺々しく鋭いそれに。
航がいつも見守っている穂高は、実は全て演じられてきたものだった。本来の穂高は傲慢でで狡猾。人を嘲笑うことに罪悪感などなければ、気に入らないものは簡単に切り捨てるような男だ。
素に戻った穂高が前髪を掻き上げる。
「よくも航の前でディスりやがったな。誰がか弱いお坊ちゃまだって?」
「穂高さん……じゃなくて穂高。お前、航がいなくなった途端に本性を現したな」
「黙れ低能野郎。何が悲しくて、航がいない時までオメガの穂高君を演じなきゃなんねぇんだよ。アレがどれだけ疲れると思ってんだ、無能」
「低能から無能までが驚くほど最短距離!しかもオメガの穂高君って……まぁ、そうなるよな。だってお前は本当はオメガじゃなくてアル──」
「バカか貴様。もっと声のボリュームを考えて喋れ。もしも誰かに聞かれたら、どう責任とってくれるんだ」
話途中でミチオの口を塞いだ穂高は、その手に力を込めて顎をわし掴んだ。ミシミシと肌にのめり込んでくる穂高の指先に、ミチオは激しく暴れる。
「い……っ、痛い痛い!!穂高、力強すぎ!」
「このまま顔の半分をぶっ潰してやろうか?そうしたら、もう余計なことを喋らずに済むだろ?」
「ごめんって。本当に悪かったと思ってる。秘密は守るから……だから、この手を放してくれ」
涙目で懇願するミチオを開放した穂高は、ミチオに触れていた手のひらを見た。すぐさま嫌そうに顔を顰めたあと、制服のスラックスからハンカチを取り出し、丁寧に拭き上げる。
拭き終えたハンカチは、綺麗な弧を描いてごみ箱の中へと投げ捨てられた。
「穂高さん……さすがに捨てるまでしなくてもいいんじゃなですかね?」
「うるさい。お前の脂が付いたハンカチなんて要らない」
「これが航だったら?もし付いたのが航の皮脂だったら、お前はどうしてた?」
「愚問だな、ミチオ。そんなの答えは決まってるだろ?」
ふっと笑った穂高は、目を眇めて宙を眺めた。まるで遠くを見ているかのような穂高の様子、恍惚とした表情に、ミチオは面倒くさいことを聞いてしまったと後悔したけれど遅い。
トリップ状態になった穂高さんを止められる者など存在しない。そんなことをしたら、今度こそ本当に顎が潰されてしまう。
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