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第39話:ハワイアン・ジントニック8

「何って……相楽さんの体以外ありません」 「言っただろ? 俺はじっとしてるのが苦手だって」 苦手――そう言い換えたけれど、一昨日の相楽さんはじっとしているのが『怖い』と言っていた。 彼の瞳の奥に、息苦しいような不安が溜まってみえる。 それに気づいた瞬間、引き留めるつもりだったのに気が変わってしまった。 「だったら、僕も連れていってください」 この人がじっとしていられないなら一緒に行って、飲み方を見張ろうと思った。 「それが嫌なら僕を倒していくか、大人しくベッドに戻るかです」 「なるほど、面白いな」 立ちはだかる僕の前に、相楽さんが半歩踏み出す。 前髪がふわりと触れ合った。 「ベッドに戻るよ。ミズキが添い寝してくれるなら」 「……えっ?」 僕たちは別々の部屋にベッドを確保していて、相楽さんの方の部屋には橘さんか誰かがいるはずだ。 もう寝ているとしても、その隣で相楽さんと同じベッドに入る勇気はさすがにない。 「じょ、冗談ですよね?」 ドキドキしながら反応を待っていると、彼の目元が笑った。 「もちろん冗談だ、行こう。ミズキを連れていくのに、悩む理由なんかない」 「……っ、意地悪ですね!」 からかわれたんだと気づき、頬の辺りが熱くなった。 * コンドミニアムを出た僕たちは、近くのホテルのバーに入り、ジントニックを注文した。 「夜中に抜けだしたってバレたら、橘さんに怒られますね」 グラスのふちを舐めながら言うと、相楽さんが片眉を上げる。 「小言くらいは言うだろうけど、それくらいだろ」 「相楽さんには『それくらい』かもしれませんけど、僕にとって橘さんは上司ですから!」 僕に実務のイロハを教えてくれるのは、相楽さんでなく橘さんだ。 橘さんは穏やかで優しい人だけれど、だからこそ困らせたくはない。 「お前はどっち向いて仕事してんだよ? 橘さん? それとも俺?」 「えっ……」 気持ちがあるのは間違いなく相楽さんの方になのに、突然聞かれて答えられなかった。 「お前も薄情だなあ」 横並びに座る彼が、僕に肩をぶつけてきた。 またグラスに口をつけ、しばらく沈黙が続く。 (あのこと、ちゃんと話した方がいいのかな?) 僕はそっと、相楽さんの表情を伺った。 「なんだよ?」 「あの……」 緊張しながら口を開く。 「早乙女さんから聞きました。この前の非常階段でのこと……あれ全部、僕の誤解でした。すみません」 グラスに目を落として話しても、頬には相楽さんの視線を感じた。 「なんで謝る?」 彼はすぐに聞いてくる。 「それは……僕が勝手に誤解して、相楽さんのことを責めたから。けど早乙女さんは、2人の関係はコンペの結果に影響してないって」 「早乙女がそう言ったのか」 「はい、あと、相楽さんにはフラれちゃったって……」 僕がしゃべりすぎてしまったのか、相楽さんが渋い表情になった。 「お前はさ……」 咎めるように、低い声で言われる。 「俺より、早乙女を信じるんだな?」 「え……?」 「だってそれ全部、俺が先に言ったことだ」 (そう言われると、そうだった……) クラシックな雰囲気のバーの中に、気まずい空気が滞留する。 「けど……相楽さんがいけないんですよ? あそこで、キス……なんかしたから。真面目な話なんだかただ誤魔化されただけなのか、あれじゃあ分からなくなります……」 沈黙に耐えかねて苦情を言うと、相楽さんがキッとこちらを睨んだ。 「キス……しちゃいけないわけ?」 「……えっ?」 思わず肩が跳ねる。 彼は怒ったような、いや、どちらかというと拗ねたような顔で僕を見据えていた。 その眼力に呑まれそうになりながらも、僕もなんとか口を開く。 「いや、あそこでキスする意味が分からないって言ってるんです。僕らはその、恋人同士ってわけじゃないんだし、そんなことする必然性が……」 「必然性ねえ……」 相楽さんが大きく息をついた。 「俺はむしろ、必要なのかと思った」 「は、なんでそうなるんです?」 「だってミズキは……」 相楽さんの左手が向こう側から伸びてきて、僕の目尻をなぞる。 「僕が、なんですか?」 「あの時、泣いてた」 「――っ!」 そうだ、僕は泣いてしまっていた。 相楽さんと早乙女さんの、衝撃的なキスがショックで。 「あの涙を見て俺は、ミズキも俺のことが好きなのかと思った」 あの時のことを思い出し、ジントニックのアルコールが一気に顔まで上がってきた。 「いや……待ってください、あの時は――」 口をパクパクと動かし、混乱した頭から言葉を探し出そうとする。 「僕はただ、相楽さんに裏切られたと思って、それがショックで……!」 僕を見つめていた彼の目が、すっと細められた。 「ちょっと来いよ」 「えっ……?」 「向こうで話そう」 テーブルの上に100ドル札を置き、相楽さんは席を立つ。 そこで僕はようやく、自分の声が高くなっていたことに気がついた。 飲みかけのグラスをそのままに、バーのあるホテルの中庭へ出る。 深夜も過ぎたこの時間、そこに人の姿はない。 水色にライトアップされたプールだけが、ゆったりと水面を揺らしていた。

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