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第42話:本と個展とオリンピック1

そして……。 ハワイから戻った僕たちは、それまで通りの日常を取り戻していた。 「ミズキ、明日13時、至宝堂!」 事務所の電話を切った相楽さんが、矢継ぎ早に伝えてくる。 「明日!? 僕、別件の締め切りが」 「向こうさんからのご指名だ」 「本当に先方の指名ですか? わざわざ僕を指名してくるなんて思えないし、相楽さんが僕をダシにしようとしてるだけなんじゃ……」 怪しい気がしてツッコむと、向こうからあからさまなため息が返ってきた。 「ごちゃごちゃうるせーな! お前がいた方が女性陣の機嫌がいいんだよ。これ以上のことはねーだろ!」 (やっぱりいつもの無茶振りか!) ブツブツ言いながらも、僕は明日のスケジュールに打ち合わせの予定を書き入れる。 今夜の残業は確定だ。 ハワイではあんな夜があったのに、相楽さんは相変わらずで。 あれ以来、僕たちに甘い時間なんてものはなかった。 (好きだとか言っておいて……。あの夜は単に出来心で僕のこと辱めただけなんじゃ?) 最近は仕事のことしか考えていなさそうな相楽さんに、不信感が募る。 そんな時……。 「みんな、ただいま……」 外出していた橘さんが、なんだかソワソワした様子で事務所に戻ってきた。 「あ、スリッパどうぞ!」 (ん、お客さん?) 背の高い橘さんがかがんだ向こうに、小柄な老紳士が見えた。 (誰……?) 首をかしげる僕のそばで、相楽さんの背筋が伸びる。 「加勢井先生!?」 「やあ相楽くん、お邪魔させてもらうよ」 相楽さんが『加勢井先生』と呼んだ紳士は、シルクハットにステッキという、絵本から出てきたようないでたちだった。 (加勢井? 聞いたことがあるような……) 事務所に居合わせた全員が手を止めて、玄関まで老紳士を出迎えにいく。 「近くに来る用事があってね。そのついでに」 スリッパに履き替えた紳士が、相楽さんにステッキを手渡した。 「よくぞお越しくださいました」 相楽さんは身をかがめ、ステッキを両手で受け取る。 (あの人、態度が別人なんだけど!) ぽかんとしてしまう僕を置き、相楽さんはみんなと応接室に入っていった。 それから数分後。 橘さんだけがお茶を入れに戻ってくる。 「いったいどなたなんですか?」 グラスを出すのを手伝いながら聞くと、橘さんは僕を見て目を丸くした。 「加勢井賢三だよ! デザイン業界のドンみたいな人」 「あの人が……」 名前を聞いたことがある気がしたけれど、業界紙か何かに載っていたんだろう。 「でも、どうしてそんなエラい人がうちに?」 「加勢井先生は、相楽が獲ったいくつかの賞の審査員でね。それ以来、あいつのことがお気に入りみたい」 「それで……」 相楽さんが人たらしなのは知っていたけれど、あんな年配の人にまでどうやって取り入ったのか。 1時間弱を応接室で過ごし、加勢井先生は外に待たせていた車で去っていった。 そして先生を見送ったみんなが、興奮冷めやらぬ顔でデスクに戻ってくる。 「何かあったんですか? みなさん、やけに嬉しそうですけど……」 疑問に思って聞くと、後ろを通りかかった相楽さんが僕の両肩を叩いてきた。 「すげーぞミズキ」 「すごいって、何がですか?」 「作品集の出版と、それを記念した個展の開催が決まった!」 「作品集って、なんの?」 「そんなの俺の作品集に決まってるだろー」 相楽さんが胸を張った。 広告のデザイナーはアーティストではないから、普通はあまり個人名で作品集を出したりしない。 「マジですか!?」 「マジだよマジ!」 相楽さんの作品集なら、僕も欲しいに決まってる。 「しかもうちからの持ち出しじゃなくてデザイン協会でやってくれるって、加勢井先生が」 横から橘さんが補足した。 「っていうか次の打ち合わせ!」 加勢井先生の突然の訪問のせいで、相楽さんはスケジュールが押しているらしい。 デスクの上の荷物をつかみ、すぐに事務所を出ていった。 (相楽さんの作品集と個展かあ。なんだか僕も、ワクワクしてきた!) ところが……。 「相楽さん、どうやってあのじいさんをたらし込んだんだろ?」 橘さんも出かけてしまい、若い数人だけが残されたところで久保田さんがつぶやく。 「えっ、たらし……?」 (僕も正直、そのことは気になってたけど) 「おーい、久保田くん言い方」 別のひとりが苦笑いで言う。 みんなが、なんとも言えない表情で顔を見合わせた。 「たらしはたらしだろ。なあ? 荒川くん」 「はいっ!? なんで僕に振るんですか……」 「だって荒川くん、相楽さんのお気に入りじゃん。加勢井先生とのことも、なんか知ってるんじゃないの?」 久保田さんに追及され、僕は慌てて首を横に振った。 「知りませんよ。相楽さんが加勢井先生のお気に入りだって聞いたのも、今日が初めてで」 「ふーん……」 久保田さんはデスクに脚を上げ、納得いかないといった顔をしている。 (前に一緒に飲んだ時も思ったけど、久保田さんは相楽さんのこと認めてないんだよな) 午後の事務所に、不穏な空気が流れていた。 「そうだな、久保田の想像通りかもな」 他のひとりが投げやりに言った。 (僕にああいうことができるんだから、相楽さんが誰と寝ようと不思議はない、か……) キーボードへ目を落とし、モヤモヤした気持ちになる。 「加勢井先生は70オーバーでしょ、さすがに……」 「とはいえ元気なじいさんもいるしなあ」 ウワサ話はまだ続く。 それを聞きながら、僕のモヤモヤはどんどん大きくなっていった。 *

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