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第44話:本と個展とオリンピック3

「あー……この顔好き」 僕の頬を両手で包み、相楽さんが笑う。 「顔ですか……」 思えば相楽さんは、出会った時からなぜか僕の顔を気に入っていた。 「顔より、体を愛でてほしい?」 「……っ、そういうことは言ってません!」 間髪置かずに否定すると、プッと吹き出して笑われる。 「そういうつれないところに、また惹かれるんだよなあ」 「えっ……」 「知らなかった?」 (そうだったんだ……) そんな本音を漏らすなんて、今日の相楽さんは相当に機嫌がいいらしい。 (悔しいけど、機嫌がいいのは加勢井先生のおかげだよな) 僕は自ら、相楽さんの唇に手を触れる。 「……っ、どうした急に」 「本と個展とオリンピック? そんなカードは、さすがにズルいです」 「ははっ、やっぱりじいさんに嫉妬してんのかよ! 男の嫉妬はめんどくせーな」 間に僕の指を挟んだまま、相楽さんが唇を押しつけてきた。 「じゃあ、そのうち俺がエラくなって、ミズキをそのカードで誘惑してやろ」 (そんなカードなくたって、相楽さんはキスだけで僕を落とせてると思う……) 口の端に触れてくるじらすようなキスを、僕はドキドキしながら受け止める。 「はい、手はここ」 両手を優しくつかまえて、彼の首の後ろに回された。 胸が合わさり、今度はしっかりと唇同士がぶつかった。 ちゅ、と吸ってくる甘いキスに、胸の奥が痺れる。 「お前からもしてこいよ」 「え……」 「俺のこと、好きなんだろ?」 「……っ……」 いじわるな質問に、どう答えていいか分からない。 「好きならキスして、ミズキくん」 上唇の先だけを触れさせながら、今度は甘えるように言われた。 「……もう」 首に回していた腕に力を込めて、僕は諦めの吐息とともに唇を合わせる。 するとすぐ、濡れた舌が押し入ってきた。 (あ……) 唇の裏側をぬるりと舐められる。 ぞくぞくするような興奮が背中を駆け抜けた。 (この感じ……) ここのところの僕はずっと、こうされたかったんだと確信する。 ハワイで覚えたいけないキスを、僕は知らず知らずのうちに熱望していた。 「今日は素直だな」 相楽さんがのどの奥で笑った。 それから彼は歯列や頬の裏側まで、熱い舌を使って丹念に愛撫してくる。 「んっ、ふ、」 「気持ちいい?」 「は……」 「お前、溶けちゃいそうな顔だな」 笑われてもいい、こうしていたい。 好きな人にいっぱい溶かされたい。 その夜、僕は久しぶりの触れ合いに、心満たされて眠った。 そののち訪れる嵐のことなど、何も知らずに……。 * 「……っ! これ、なんなんですか!?」 PCモニタを見つめ、マウスを握る手が震える。 社内の一斉メールで送られてきた1本の動画が、事務所を凍りつかせていた。 メールの送付元は相楽さん。 動画は前日の夜、何者かによってインターネット上にアップされたものだった。 動画の中から、ボイスチェンジャーを通した声が告発する。 『これも僕のアイデアで、制作したのも僕自身です。最初から最後まで』 顔の映らない人物が指さしているのは、近々発売されるはずの、相楽さんの作品集の版下だった。 声が冷ややかに続ける。 『最近はエラそうにテレビのコメンテーターなんかもやってますけど、相楽天なんていうクリエイターは存在しません。その実体は、名前も知られない大勢のデザイナーたち。僕もその1人でした。相楽天というひとつのプロジェクト? そう解釈すれば近いかもしれません。相楽自身は、ラフもまともに描けない素人ですから』 事務所に響く動画の音声を聞きながら、相楽さんはじっと窓ガラスを睨んでいた。 眉間には見たこともない深い皺が刻まれている。 「誰がこんな動画を!」 見ているのもつらくて、僕は動画を止めて立ち上がる。 「そんなのは、聞かなくたって分かるだろ!」 相楽さんが、空いた席を指さした。 (久保田さん…!?) 久保田さんは数日前から無断欠勤していた。 相楽さんの下で働いていたクリエイター。 発売前の作品集の、版下を持っている人物。 そして相楽さんに対し悪意を持つ――。 この条件に当てはまる人物は限られている。 「なんでこんなこと……」 ショックと動揺に体が震える。 テレビにも出ている人物のスキャンダルとあって、インターネット上にある動画の再生回数はものすごいことになっていた。 事務所の電話が、けたたましい音で鳴り始める。 「……っ、どうします?」 「出ないわけにはいかない、よね?」 そんな会話が交わされて、電話に1番近いひとりが泣きそうな顔でそれを取った。 「はい、テンクーデザイン……相楽ですか? え、と……」 彼の表情を見て、苦情の電話らしいことはすぐに分かる。 相楽さんがまっすぐ歩いていって、取り次がれる前に受話器を引き取った。

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