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第46話:本と個展とオリンピック5

「相楽……」 僕の後ろで、橘さんがうなる。 (あの目、相楽さんにも絶対、今の話が聞こえてた!) 張り詰めた空気の中、彼は僕たちのところまでまっすぐに歩いてきた。 「ミズキ」 「は、はい……」 「玄関にこれ、忘れてた」 スマートフォンを胸元に押しつけられる。 とっさにホームボタンを押すと、画面に橘さんからの呼び出しメールが表示された。 (……っ、これ見て来たのか!) パスコードロックまでの時間を短く設定していなかったことを、しまったと思う。 「橘さん、俺、言いましたよね? こいつと住んでるって」 相楽さんの問いかけに、橘さんは戸惑いの表情を浮かべた。 「分かってて、なんでこんなことするかな」 みんなの視線が、僕の頬に突き刺さる。 「だいたい、まだ休業して1カ月もならないのに。見切り早すぎだろ……」 相楽さんの左手が、すっと僕の肩に乗ってきた。 そこでようやく橘さんが反応する。 「荒川くん、行くところがないなら一旦うちにおいで」 「……は?」 聞き返したのは相楽さんだった。 「嫁と子供もいるけど、君1人くらいなら置いてあげられる」 「何言ってる!」 肩の上にある手に力がこもった。 「だって荒川くんだけ、お前の元に置いておけないよ。一度面倒を見ることになったら、僕にとって大切な部下だ」 2人の間で、視線の火花がぶつかる。 「もう勝手にしろ。ミズキ、行くぞ!」 強引に肩を引き寄せられた。 「待ってください!」 とっさに僕の方から、相楽さんの腕を握り返す。 「待って……こんなのおかしいじゃないですか! どうして相楽さんと橘さんがぶつかり合う必要があるんです!? 2人は一緒に前の会社から独立して、今までずっとやってきたんですよね? 僕にはバラバラになる理由が分かりません!」 僕の言葉に、2人は睨み合ったまま答えなかった。 少しして、橘さんが口を開く。 「経営方針の違いだよ」 「でも、橘さんは分かってるんですよね? 久保田さんやみんなは、相楽さんのことを誤解してるって」 「誤解……?」 橘さんの瞳の奥が揺らいだ。 「そうですよ、相楽さんはデザインができないんじゃない! 相楽さんは――…」 「ミズキ!」 相楽さんの低い声に遮られた。 「もういい」 「よくないです! 誤解されたままでいいわけない!」 「お前、ちょっと黙ってろ!」 みんなの前だというのに、口の中に親指を突っ込まれる。 そのまま僕は、マンションまで引きずられて帰った。 * 「放してください!」 玄関に入り靴を脱ぐタイミングで、ようやく相楽さんの腕を振り払う。 「どうして何も言わないんですか! その右手のこと、話さないままじゃみんなに誤解されたままだ」 「……ミズキは、何を知ってる」 玄関の鍵を閉めた相楽さんが、振り返って僕を睨んだ。 強い瞳に射抜かれて、背筋がビクッと震える。 「誰に、何を吹き込まれた」 彼は玄関で仁王立ちになり、じっと僕を見据えている。 「吹き込まれたとかじゃない……早乙女さんから聞いたんです」 「早乙女?」 彼は意外そうに片眉を上げた。 「早乙女がなんだって?」 「以前、たまたま聞いたんです。相楽さんが代理店時代に職場で倒れて、しばらく入院とリハビリが必要だったってことを」 「それで……聞いたのはそれだけか?」 その表情に、明らかな困惑の色が浮かぶ。 「はい、聞いたのはそれだけです。でも僕は、前から不思議に思っていました。デザイナー時代、とても繊細なデザインをしていたあなたなのに、なぜか手描きラフが得意じゃない。エコ水の時もそうでした。あなたの描くモンスターの絵は不器用で、ちょっと、僕のイメージしていた相楽天のものとは違った」 目の前の彼が苦笑を浮かべて反論した。 「デザイナーはイラストレーターじゃない。絵の描けないデザイナーはいくらでもいる」 「けど、相楽天に限っては違う。あなたの作品には、イラストを使ったものが多いですよね。特に昔は、そういう作品の方が多かった」 「それは、単なるお前のイメージだろ」 相楽さんの視線が下がる。 「違います。僕は学生時代から、あなたの作品をよく見ていましたから」 「…………」 言葉を失ってしまった彼を見つめ、僕はその右手を拾い上げる。 「久保田さんたちは、相楽さんがもともとデザインできない人だって思い込んでますが、違いますよね? あなたのこの手は、倒れた時から描けなくなってしまった」 手の中で、彼の右手がビクリと震えた。 「早乙女さんが言ってた『入院とリハビリが必要だった』っていうのはそういう意味だ」 「……お前、勘がよすぎないか?」 目を上げた相楽さんが、泣き笑いのような顔になる。 「早乙女だって、この手が治ってないことには気づかなかったのに……」

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