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■□■  最後の段ボール箱にガムテープを貼り付けた睦月は、立ち上がりながらふう、とため息を吐いた。  6年も暮らし住み慣れた部屋は、家財道具が減ってかなりすっきりしていた。部屋に残っているのは、デスクトップ型のパソコンにそれ専用の机と椅子。プリンターやスキャナーなどの周辺機器と、それらを乗せたキャビネットだけである。  ──さすがに、これは持っていけないよな。アイツの持ち物だし  使い慣れたデスクトップのディスプレイを指先で撫でながら、睦月は心の中で呟いた。  自分の仕事用のデータは、すべてDVDやUSBに保存した。余分なデータも削除した。この小さな箱の中に睦月のものは一切ない。  新しいパソコンは、新居を決めた際に量販店ですでに注文していて、引っ越してもすぐに仕事に取りかかることができるから、生活に困るという事態にはならない。  ──ああ、でもベッドはなかったんだよな。  睦月はひっそりと、苦い笑いを浮かべる。  この部屋に住み始めた頃に使用していた自分専用のベッドは、同居人が『恋人』になった時点で処分してしまった。  パソコンやベッドだけではない。他にも新居で購入しなければならない物がたくさんある。引越代金だけでなく、それらを新しく購入するのは痛い出費だ。だが、それはそれでいいと、睦月は思った。  この部屋から持ち出す物は、できる限り少ない方がいい。でないと、新しい日常を始められない。  ふと腕時計に目をやる。アナログ時計の針は、10時20分を指していた。  ──遅いな。  引っ越しを依頼した業者は、10時までにはここに来ると言っていたはずなのに 。  ピンポーン。  そう考えていたら、ちょうどのタイミングでドアチャイムが鳴った。睦月は急いで玄関に向かい、ドアスコープを覗く。Tシャツ姿の見知らぬ若い男が、ドアの前で所在なさげに立っていた。  頼んでた業者の人かと思い当って、すぐにはドアを開けず中から声をかけた。 「どちら様?」 「遅くなって申し訳ありません。トクラサービスカンパニーです」  明るく爽やかな声が、ドアの向こうから聞こえてきた。  ──なんか、いい感じの声だな。  少なくとも、以前に引っ越しの見積りのためにやってきた社長と名乗った胡散臭いオヤジより、ドアの向こう側の若い声の方がまともそうだと、睦月は好印象を持った。 「ちょっと待ってください」  玄関に降りて、ドアチェーンを外してノブに手をかける。そして、思いきりドアを開け放った。  ──ゴンッ!  かなり鈍い音と「いってぇ……っ」という声。  どうやら、睦月が思っていた以上に力を入れて勢いよくドアを開けてしまったらしい。目の前で、体格のよさそうな男が蹲っていた。 「大丈夫ですか?」  おそるおそる声をかけてみるが、若い男はすぐには立ち上がれそうにない。どうすればいいのかわからなくて、睦月はその場におろおろするしかなかった。  ドアが開いたと思ったら、衝撃とともに祐太の目から星が飛んだ。ドアが開く軌道の目測を誤ったせいだ。  額と鼻に感じた激痛に蹲っていたら、頭上から焦ったような柔らかい声がした。さっき、ドア越しに聞こえてきた聞き心地のいいテノールと同じものだ。  祐太は額を手で押さえながら、目線だけで声の主を見上げる。そこには祐太を心配そうにのぞき込んでいる青年がいた。 「あの……ごめんなさい。つい勢いよく開けちゃって」  おろおろとうろたえながら謝ってくる様は、とても自分より年上とは思えない。 「いや、大丈夫っす」  なんとか答えて、顔を上げて立ち上がる。そして、まともに相手を目にした途端、祐太はそのまま体が固まった。  正確にいうと、見惚れてしまっていたのだ。自分に平謝りしていた青年に。  細身というより、華奢という言葉が似合うほっそりとした体つき。漆黒の長めの髪はくせらしいものがまったくなく、真っ直ぐでつやつやしている。整った目鼻立ちに、白い肌。髪と同じ色の大きめな瞳が印象的だ。  女性的かというと、微妙に違う。体躯に特有の丸みもないし、声は高めだがちゃんと男性のものだ。それでも、つい見とれてしまうほどに『美人』の青年だった。 『美形』でもなく『カッコいい』でもなく『美人』。そんな表現が、似合う男。 「あの……本当に、大丈夫ですか?」  おずおずと声をかけられ、しばし物思いにふけってしまっていた祐太は、ハッと我に返った。 「すみません! あの……薗部様ですよね?」 「はい」 「今日のお引っ越しの作業をやらせていただきます、徳倉です」  慌ててなんとか営業モードに切り替えて、祐太はぺこりと頭を下げた。 「あ……」 「あ?」  最初に声を出したのは睦月で、続いて祐太も似たような声を出す。顔を上げた途端、祐太の鼻の下からツーッと赤い筋が通ったのだ。  生暖かい感触を感じて下を向くと、Tシャツに点々と赤いシミができていてぎょっとする。だが、驚いたのは祐太だけじゃなかったようだ。 「わっ! ご、ごめんなさい! 鼻血でちゃった。ティッシュ、ティッシュ──ちょっと、こっち来て!」

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