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 慌てた様子でキョロキョロと周りを見回して、目当ての物がないとわかるや、睦月はいきなり手首を掴んで祐太を部屋の中へと引き入れた。意外な力の強さに、祐太は咄嗟に抗うこともできない。  強引に引っ張られて、あわただしく靴を脱ぎながら目に入った部屋の様子に、祐太はある種の違和感をおぼえた。  まず、玄関だ。三和土には大きめなスニーカーやブーツが5、6足ほどが片付けられずに無造作に並べてある。  長くはない廊下の奥には、8畳のリビングダイニングがあった。そこと繋がるドアが2つ。やや狭めな2LDKというところだろうか。  リビングにあるテレビの周りは、電気コードがすべて抜いてあってすっきりしているのに、その前に置いてあるテーブルやソファーは、脱ぎ捨てたシャツがひっかけてあったり、読みかけの雑誌や吸殻の沢山入った灰皿があったりする。  本棚らしき棚にはまったく何もない状態なのに、隣り合った棚にはビデオテープやDVDがぎっしり並べてある。  段ボール箱がいくつか部屋の片隅に積まれているが、この部屋の広さにしては あまりにも数が少ない。  ──どういうことだ?  社長の徳倉や他の先輩社員たちと一緒に、何回か引っ越し作業の仕事をしたことがある。たった数回の経験だが、それでもまったくの未経験ではない祐太にとって、この部屋は引っ越しをするというには違和感だらけなのだ。 「ほら、ティッシュ」  立ち竦んでいた祐太に、睦月がボックスティッシュを箱ごと手渡してきた。 「あ、どうも」  礼を言ってそれを受け取り、鼻を押さえていた手のひらを見て、祐太は再びぎょっとする。あまりにも真っ赤に染まっていて、クラッとめまいを起こしそうになった。 「うわ。けっこう出てるねぇ……ごめんね」  祐太の手のひらを見て、睦月は痛そうに顔をしかめながら、一緒に持ってきたらしい濡れタオルで血塗れたそこを拭き始めた。 「あ……タオル、汚れますよ」 「いいよ、これぐらい。僕のせいなんだし。ほら、ティッシュ。鼻に詰めなくていいの? まだ鼻血出てるよ」  睦月に指摘され、祐太はあたふたとティッシュで鼻の下などを拭くと、そのまま上を向こうとした。 「あっ! ダメだよ」 「え?」  制止されたのを訝しんで祐太が聞き返すと、白く細い手がやんわりと祐太の頭をはさんで正面を向かせる。 「鼻血が出た時に、上向くのはよくないって、テレビか何かで見たことあるんだよね」  独り言のように呟きながら、睦月は手早く祐太の鼻にきれいに丸めたティッシュを詰める。  間近にやってきた整った顔を見て、なぜだか祐太の胸が激しく高鳴った。  ――なんだよ。相手は、男だぞ?  欲求不満かよ、などと自分で自分を揶揄するが、それで激しく脈打つ心臓が鎮まるわけじゃない。自分の体なのにうまく制御できなくて、祐太はますます焦っていた。  そんな祐太の心境など知る由もない睦月は、祐太の鼻の周りを細くてきれいな指で撫でている。 「うーん……赤くなってるなぁ。折れてはいないだろうけど、腫れちゃうかもな。冷やしておく?」  祐太にそう訊ねてくる表情は、本当に心配そうで、悪かったと謝罪を伝えていた。  そんな彼にドキドキしている自分がなんだか疚しく思えて、祐太はいたたまれなくなる。だから、睦月の申し出に否定の意味で頭を振った。 「大丈夫っす。そこまでしていただかなくてもいいんで……それより、仕事させてもらえませんか?」 「え?……あ、そうだったよね」  祐太の言葉に、本来の目的にたった今気づいたかのように、睦月は頬を赤く染めて照れ笑いする。  その様も可愛らしくて、祐太の焦りはますます募る。  なんとか営業モードを保とうと、睦月に作業について問いかけようと彼に顔を向けると、睦月が小首を傾げてこちらを見る。  あ、あざとい。でも、可愛い。  ヤバい。  危機感ゼロかよ、この人。  ますます心拍数が上がって、内心落ち着かない。かといって、襲いそうになるからやめてくれませんかなどと、言えるわけがない。  ――てか、アブナイのは俺か……。 「なに?」  屈託なく睦月が聞いてくる。祐太は内心をごまかすように、キョロキョロとリビングダイニングを見回しながら問いかけた。 「あの、車で運ぶ荷物なんですが、この部屋のもの全部……じゃないですよね?」  もし、そうだとしたら、乗ってきたワゴン車では1回では運べない。そんな祐太の憂慮を感じたのか、睦月はふっと微笑んだ。しかし、その笑顔にはどこか陰がある。 「うん。運んでほしいのは、そこのダンボール箱と、この棚とテレビとテレビラック。あと、奥の右側の部屋にあるやつかな」  睦月の説明に促され、祐太は荷物のひとつひとつを確認する。まとめてあるそれらを見て、これならワゴン車に十分積み込めるなと確信した。  ――俺ひとりで運んでも、2時間はかからないな。  祐太が考えをめぐらせていると、申し訳なさそうに睦月が続けて言った。 「それで……できれば、お昼までにはここを出たいんだけど」 「へ!?」  睦月の言葉に、祐太はポケットの携帯電話を取り出した。11時までにあと15分しかない。鼻血騒ぎで、意外にも時間を取ってしまったようだ。  荷物を検分するためにしゃがんでいた祐太は、慌てて立ち上がった。 「じゃあ、今すぐ車に運んじゃいます。なんとか、間に合わせますから」 「う、うん。……あ、ちょっと待って。これ」  睦月が差し出したのは、透明のビニール袋に入った真新しいTシャツだった。訝しんで眉間に皺を寄せる祐太に、睦月が説明する。 「今着てるやつ血で汚れてるし。着替えた方がいいかなと思って」 「でも。これ、新品じゃ……」 「いいから、ね?」  押しつけられるように渡されたのを受け取り、祐太は仕方なく着替えはじめた。  脱いでみて改めて気づいたが、祐太が着ていたTシャツはかなり血だらけになっていた。どうりで、着替えを睦月から強いられるわけだ。  Tシャツを着替え終えて睦月の方を見ると、彼はどこか満足げに微笑んでいた。 「すみません。これ、洗ってお返ししますから」 「え、いいよ。ドアをぶつけちゃったのは僕だし、お詫び……っていうにはショボいんだけど。あげるよ」 「でも……」 「いいから。もらってくんない?」  穏やかだが、堅固な口調で言ってくる睦月に、祐太はそれ以上逆らうのをやめた。 「じゃあ、いただきます。すみません、お手数かけて」 「だから、僕が悪いんだからさ。そっちがあやまるのっておかしいよ」  祐太の態度に、睦月はとうとうクスクスと笑いだした。  まるで、ふわっと甘い香りが漂う花が咲き誇ったような笑顔。  ――笑った顔がよく似合うよなぁ。  祐太は見とれながら、そう思った。 「じゃあ、荷物を運んじゃいますね」 「そうだね。さっさとやっちゃおうか」  祐太は軽々とダンボール箱を二つ担ぎ上げ、その後ろから一つの箱を懸命に運ぶ睦月がついていった。

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