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05
「なんで、今日出てくってわかった?」
「睦月 の性格だと、出て行くギリギリにならないと荷造りしないだろうって思ったんだ。昨夜帰ったら、ダンボール箱が積んであったから、そろそろかなって……」
「そっか……」
長年の付き合いだからこそ、自分の行動を把握されてしまったのが悔しい。けれど、その感情の中には嬉しさもたしかに混じっていて、睦月は複雑な笑みを浮かべた。
「睦月」
「なに?」
「ずっと……ずっと、言えなかったことがあった。お前が俺に内緒で出ていきたかったのはわかっていたんだけど、どうしても言わないと一生後悔しそうだったから」
翼の言葉に、睦月は漸く顔をあげた。翼は微笑んだままでいたが、どこか寂しげな色を瞳に滲ませている。
もしかしたら、それは希望的観測で、実際は違うのかもしれないと考えてしまう自分が、睦月はなんとなく嫌だった。
深く低い声。柔らかい、茶のかかった髪。優しく細める目もと。形の整った薄い唇。広い背中。節の目立つ長い指。
すべてが大好きだった。ずっと、昔から。いつでも、睦月のそばに彼はいた。いてくれた。それなのに──。
「ごめんな」
ぽつりと、翼が言葉を紡いだ。小さくつぶやくような声だったが、それはしっかりと睦月の耳に入ってきた。
信じられない、とばかりに、睦月が大きな目をさらに見開いて、翼をじっと見上げる。
どれだけケンカをしても、明らかに自分に非があったとしても、彼は今まで自分に対して謝ったことはなかったからだ。
たった今、口にした以外は一言も──。
ふつふつと、胸の奥から沸き上がってくる何かを、睦月は奥歯を噛みしめてどうにか堪えた。しかし、それでも自分の意志とは関係なく勝手にこみ上げてくるものをごまかすために、黙ったまま空を見上げる。
「なに?」
翼が聞いた。
「いや……。雨でも降るんじゃないかと思ってさ」
空を見上げたままで、睦月が答える。ひどいな、と言って翼は笑った。
睦月の頭上に広がるそれは、どこまでも青く澄み渡っていて、雨雲どころか小さな筋雲ひとつ見つからなかった。まさに、快晴と呼ぶべき青天だ。
わざわざ上を向かなくても、そんなことはわかりきっていた。本当に空の様子を探りたかったわけでもない。だが、こうでもしないと、泣きそうになったことが翼にバレてしまうのが嫌だったのだ。
今さら彼の前でみっともなく泣いたところで、何の効果もないことはわかっていたし、そんなことをするのも、自分のなけなしのプライドが許さなかった。
「でも……晴れて、よかったな」
「……うん」
まだ空を見つめ続ける睦月に、翼は優しく語りかけてくる。
こうしていると、別れ話をしたのが嘘のようだと、睦月は思った。昔の笑い合って暮らしていた頃に、一瞬だけ戻ったかのような錯覚に陥りそうになる。
でも、違う。
どんなに穏やかに話せるようになっても、二人が元通りに戻れないことを睦月は十分に実感していた。
そして、こうして翼がきちんと謝ってきたのは、いわゆる別れの儀式であって、それを済ませて睦月 という存在を切り捨てたいのだということも、痛いほどわかってしまった。
「もう……行くよ」
それでもなんとか涙を堪えきって、睦月は翼の方へ向き直って微笑んだ。
普通に笑えていることに、内心ホッとしながら。
「ああ。──睦月、本当にごめんな」
二度目の謝罪を翼は口にした。おざなりではないその言い方に、また胸が苦しくなる。せっかく作った笑顔が、歪みそうになった。
「いいよ、もう……」
「幸せにしてやれなくて、ごめん。……約束したのにな」
幸せにする──それは、遠い昔に戯れるように交わした約束。
ここで、持ち出すなよな。ズルいんだから。
睦月はきゅっと、眉根を寄せる。
「もういいって、言っただろ」
「わかってる。でも……」
「じゃあな、翼」
まだ何かを言おうとした翼を遮って、睦月は彼に右手を差し出した。口を噤んだ翼が、それをじっと見つめる。
「最後に、握手くらいしてくれないかな?」
お前の別れの儀式に、こうして付き合ってやってるんだから。
そう言いそうになるのを、すんでのところで呑み込んで、睦月は再度作った笑顔の陰に隠した。
右手に、翼の大きな手のひらが合わさる。互いに軽く握り合って、二人は握手の形を整えた。
「元気でな」
「ああ、睦月も」
「僕の持ち物が部屋に残っていたら、捨てちゃってかまわないから」
笑顔を崩さずに睦月がさらりと言うと、翼は何かの痛みを堪えるように顔をしかめる。
それを見て、微笑みに哀しみの色を落としながら、睦月はゆっくりと手を離して踵を返した。
ワゴン車の助手席側のドアを開けると、運転席で若い便利屋がぼんやりとハンドルにもたれかかっていた。
「ごめんね、待たせてしまって。出発しましょう」
睦月が乗り込んで声をかけると、便利屋の青年は軽く頷いてエンジンをかけた。
ドアミラー越しに、睦月は車の後ろに視線を向ける。鏡に映った元恋人が、じっとこちらを見つめているのがわかった。
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